神田駅東地区連合 鍛冶町一丁目町会

2025年05月11日 16:05

【町会の特徴】
江戸時代、この地域には金属加工に従事する職人が多く居住していました。​『武鑑【ぶかん】 』という資料によれば、
文化年間(1804~1818年)には、多くの金属加工職人がこの町内に住んでいたことが記録されています。

特に、幕府の鍛冶方棟梁【かじがた とうりょう】であった高井伊織【たかい いおり】が屋敷を構えていたことから、
多くの鍛冶職人が集まり、町が形成されました。​
高井家は、相模【さがみ】 、武蔵【むさし】 、安房【あわ】 、上総【かずさ】、下総【しもうさ】 、常陸【ひたち】 、
上野【こうずけ】、下野【しもつけ】の「関八州【かんはっしゅう】 」の鍛冶頭を務めており、その影響力は大きかったとされています。

鍛冶町【かじちょう】は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。

多くの鍛冶師【かじし】 、鋳物師【いもじし】 、釜師【かまし】などが集まって
築城用【ちくじょうよう】金物をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。
鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。

鍛冶町一丁目は、JR神田駅に近接する商業地域として発展しており、多くの商業施設やオフィスビルが立ち並んでいます。
​また、飲食店や居酒屋も多く、賑わいを見せています。​
このように、鍛冶町一丁目は、江戸時代から続く鍛冶職人の町としての歴史を持ちながら、現在も商業の中心地としてその役割を果たしています。

町会の該当区域は、鍛冶町【かじちょう】一丁目全域となっています。

【神輿の特徴】
鍛冶町一丁目町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造り【いりもやづくり】の神輿の一つです。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。

神田駅東地区連合 紺屋町南町会

2025年05月11日 15:53

【町会の特徴】
神田紺屋町【かんだ こんやちょう】は、慶長【けいちょう】年間に徳川家康から
軍功【ぐんこう】として藍染め【あいぞめ】の権利を与えられた紺屋頭【こんや がしら】、
土屋五郎右衛門【つちや ごろうえもん】が支配していた江戸古町【えど こまち】の一つです。
紺屋【こんや】とは、布を染める職人、またはその家業を指す言葉です。 特に“紺”という字があらわすように、藍で染める“藍染め”の職人が多く、江戸時代には、その専門集団が暮らす町が、
紺屋町【こんやちょう】と呼ばれるようになったのです。
城下町では、火災や疫病を防ぐため、同じ職業の人々を一か所に集めて住まわせる“町割り”がなされていました。 火を使わず、水を多く使う紺屋たちは、川沿いや水路の近くに居を構え、町全体が一つの工房のように機能していたのです。

庶民が着る浴衣、武士の羽織、商家の暖簾【のれん】 、祭りの法被【はっぴ】、紺屋の仕事は、暮らしのあらゆる場面に溶け込み、人々の美意識を育んできました。

文明開化の波とともに、西洋の染料や工業技術が日本に入り込みます。 化学染料の登場により、早く、安く、大量に染めることができるようになると、長い時間をかけて染める伝統の紺屋【こんや】たちは、
徐々にその姿を消していきました。

戦後、昭和の高度経済成長期に入り、町は大きく様変わりします。 商店や住宅が立ち並び、かつての染めの町は、静かに記憶の中へと姿を変えていきました。

【神輿の特徴】
紺屋町南町会の神輿は、平成11年、町会員の飯田昭次郎【いいだ しょうじろう】の手により
作られました。
紙と木で作られた神輿です。

神田駅東地区連合 神田須田町二丁目町会

2025年05月11日 15:45

【町会の特徴】
江戸時代、この地域は八方から道が集まる「八つ小路」と呼ばれ、神田川や日本橋川などの運河に挟まれた交通の要所でした。
​明治時代以降は、都電の一大ターミナルとして発展し、日本橋から上野や本郷へ、神田から上野へ向かう交通の要衝となりました。

​昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して
防火にあたったため、町内の大半は戦火をまぬがれることができたと言われています。
戦後、この地域には羅沙【ラシャ】(厚手の毛織物)の切り売りを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛を見せました。
近年、羅沙【ラシャ】屋さんにIT企業も加わり、老若男女で活気ある町となっています。

神田須田町二丁目は、神田明神の氏子地域と柳森【やなぎもり】神社や下谷【したや】神社の氏子地域が混在しています。
​神田明神と柳森【やなぎもり】の本祭りは奇数年の5月に行われ、町会の神輿は両社まで渡御します。​
また、偶数年には下谷【したや】神社の本祭りがあり、平成26年(2014年)には、町会神輿が下谷神社に渡御するようになりました。
今でもこの須田町に住む人々は、お祭り以外にも、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続けていく町会です。

町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。

【神輿の特徴】
神田須田町二丁目町会の神輿は、日本の発展、復興を願い、神田明神本社の神輿も手がける
神輿師、『宮惣【みやそう】』の手により、約80年振りに新調しました。
大きさは二尺八寸(従前の神輿は二尺三寸)、延屋根【のべやね】造り、総彫【そうぼり】、
総彩色【そうさいしき】の神田唯一の神輿です。
町内の柳囃子社中【やなぎばやし しゃちゅう】を先頭に、五百名を越える担ぎ手のより宮入します。
新調した神輿と、一致団結した担ぎ手の『技』に注目してください。

神田駅東地区連合 北乗物町町会

2025年05月11日 15:30

【町会の特徴】
北乗物町【きたのりものちょう】は、明治2年(1869年)に、元乗物町代地【もとのりものちょう だいち】、兵庫屋敷代地
【ひょうごやしき だいち】、神田紺屋町二丁目横町代地【かんだ こんやちょう2ちょうめ よこちょう だいち】が合併して成立しました。

名称は、江戸時代、この地域に駕籠【かご】職人や馬具職人が多く住んでいたことに由来します。​
当時、駕籠【かご】や馬は主要な交通手段であり、それらの製造や関連する職人が集まる町として
「乗物町【のりものちょう】 」と名付けられました。

​享保4年(1719年)、幕府の命令により、神田北乗物町の南側に位置していた紺屋町の一部が北乗物町の北部に移されました。
​この跡地は、防災用の空き地として利用され、町の配置に影響を与えました。

明治2年(1869年)に元乗物町【もとのりものちょう】代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。
​この町は、鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側に位置する片側町として形成されまし

元乗物町【もとのりものちょう】の「元」は日本橋の「新乗物町【しんのりものちょう】」に対して名付けられました。
「兵庫屋敷」は兵庫殿【ひょうごでん】という御女中【ごじょちゅう】が拝領【はいりょう】した屋敷であると言われています。

町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。

【神輿の特徴】
北乗物町町会は山車にご注目ください。
戦後作られた氏子町会最大のこの山車は、電線の高さを考慮に入れて、昭和29年に作成された、
「獅子頭太鼓山車【ししがしら たいこ だし】」です。
神田神社の正面に建つ「随神門【ずいしんもん】 」をぴたりとくぐり抜け、宮入をします。
純金箔貼りの雄、雌【おす、めす】の獅子頭【ししがしら】を取外し、
「獅子頭神輿【ししがしら みこし】」として担ぐこともできます。
台座は総欅【けやき】作りで、丁寧な彫刻が施してあります。その美しさをご堪能ください。

中神田十三ヶ町連合 司町一丁目町会 子ども神輿

2025年05月11日 15:18

【町会の特徴】
司町一丁目の歴史は、江戸時代にさかのぼります。この地には、かつて三河町【みかわちょう】、皆川町【みながわちょう】、
蝋燭町【ろうそくちょう】、旭町【あさひちょう】という4つの町が存在していました。

「三河町には、徳川家康の家臣である三河衆が屋敷を構え、皆川町は大名屋敷が並ぶ地域でした。
一方、蝋燭町では、江戸の灯りを支えた蝋燭商人が暮らし、旭町には、秋田藩佐竹家ゆかりの地として佐竹稲荷神社が祀られていました。

時は流れ、明治時代。この地域は、商業地として大きく発展していきました。
神田駅が開業し、多くの商店や出版社が軒を連ねるようになりました。

そして、昭和10年(1935年)、4つの町が統合され、『司町【つかさちょう】』という新しい町名が誕生します。
名付け親は、神田神社の宮司・平田盛胤【ひらた もりたね 】 。
その名には、『者の頭領【とうりょう】なれば、未来永劫【みらい えいごう】栄ゆること疑いなし』という願いが込められました。

しかし、時代は激動を迎えます。第二次世界大戦による東京大空襲で、この地域も壊滅的な被害を受けました。
戦後の復興とともに、司町はオフィス街として再生し、現在では多くの企業が集まるビジネスエリアへと変貌しました。

現在、町名は「内神田【うちかんだ】」になりましたが、住民組織である町会では「司【つかさ】」の名前を引き継ぎ
「司町一丁目町会【つかさちょう  いっちょうめ ちょうかい】」として存続しています。
町会の該当区域は内神田一丁目9〜11・16〜18番地及び内神田二丁目10〜12・15番地となっています。

【神輿の特徴】
司町一丁目町会の神輿は、昭和31年、宮本重義【みやもと しげよし】の手により作られました。
大きさは台輪【だいわ】寸法2尺2寸です。
蕨手【わらびで】の所に、銀の龍をあしらった優美な神輿です。
担ぎ手からは「楽しく担げる神輿です」と言われるような、町会と同じように人情味溢れる神輿です。
また、数年前には子ども神輿と山車を修復しました。
特に山車は昭和9年の大祭に皇太子殿下ご生誕を記念して作られて以来の大修復となりました。

【子ども神輿】

中神田十三ヶ町連合 内神田美土代町会

2025年05月11日 15:06

【町会の特徴】
町名の由来は、かつてこの地域に伊勢神宮【いせじんぐう】へ奉納する稲、初穂【はつほ】を育てる水田、「みとしろ」が
あったことにちなんで生まれたものであるとも、また、「神田【かんだ】」を訓読みすると「みとしろ」になるため
「美土代町【みとしろちょう】」としたとも言われています。

内神田美土代町会【うちかんだ みとしろ ちょうかい】があるこの地域一帯には、江戸時代、高位の武士たちの武家屋敷【ぶけやしき】が
立ち並んでいました。
​特に元禄年間(1688年~1704年)には、五代将軍徳川綱吉【つなよし】の側近として活躍した柳沢吉保【やなぎさわよしやす】が
屋敷を構えていました。
その他、老中や若年寄【わかどしより】を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたと言われています。

一方、武家屋敷だけではなく、商人や職人が住む町屋もありました。
江戸時代の美土代町【みとしろちょう】周辺は、重要な武家屋敷地【ぶけやしきち】でありつつも、
新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐【ふところ)の深い町でした。

明治5年(1872年)に美土代町が成立し、当初は一丁目から四丁目までの広い町域を持っていました。
​しかし、時代が進むにつれてその範囲は縮小し、昭和22年(1947年)に現在の千代田区神田美土代町が誕生しました。

町会の該当区域は神田美土代町及び内神田一丁目2〜4・12〜15番地となっています。

【神輿の特徴】
宮入は総勢300名の担ぎ手により、賑やかに、楽しく担ぎ上げます。
見物人の方々にも和気あいあいとした雰囲気が伝わると思います。
屋根唐破風【からはふ】型神輿の大神輿は、昭和28年、宮本 重義【みやもと しげよし】の手により生まれました。
特徴のあるデザインが魅力です。

中神田十三ヶ町連合 須田町北部町会

2025年05月11日 14:58

【町会の特徴】
須田町北部町会【すだちょう ほくぶ ちょうかい】は昭和8年に設立しました。
 
この地域は、かつて「須田村【すだむら】 」と呼ばれる農村地帯でした。
​江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に江戸の町の整備が進む中で、須田村も農村から町人の町へと変貌しました。
​しかし、古くからの地名は残され、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図【しんてん えどのず】」には「すた町」と記されています。
江戸時代、須田町【すだちょう】は8つの街道が集まる交通の要衝【ようしょう】であり、神田川の舟運の拠点でもありました。
​これにより市場が開かれ、商業地として賑わいました。

かつて、この辺りには、現在は中央線となった甲武鉄道【こうぶてつどう】の始発駅である、万世橋駅【まんせいばしえき】があり、
東京で一番交通の便利な場所でした。
須田町【すだちょう】交差点の雑踏【ざっとう】ぶりは「親知らず子知らず」と称されるほどで、
大正初年(1912)に、交通巡査が日本で初めて立ったのもこの須田町交差点であったと言われています。
 
また、須田町北部町会には出世稲荷【しゅっせいなり】神社という、誰もがあやかりたい名前を持つ神社があります。
創立の頃より、町内の鎮守神【ちんじゅしん】であったと言われています。
現在の社殿は昭和3年に完成したもので、毎年9月15日に祭祀【さいし】を行っています。

町会内には、昭和初期の建築物が多く残されています。
​1930年(昭和5年)創業の甘味処「竹むら」は、入り母屋作りの3階建ての建物で、東京都の選定歴史的建造物に指定されています。

【神輿の特徴】
須田町北部町会の神輿は、昭和16年に製作されました。
伝統を重ねてきた神輿同様、我々担ぎ手も強い気持ちで担ぎ続けます。

中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会

2025年05月11日 14:50

【町会の特徴】
多町二丁目【たちょう にちょうめ 】は神田の中でも古い町のひとつとで、徳川家康が江戸に幕府を開いた直後の
慶長【けいちょう】 11年の起立と伝えられています。

慶長年間(1596年~1615年)、草創名主【そうそうなぬし】の河津五郎太夫【かわづ ごろうだゆう】が現在の多町二丁目に青物市場を開設しました。 この市場は明暦の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府の御用市場となりました。

神田青物市場は、約270年間にわたり江戸・東京の食を供給し続けました。
​この市場は、相対取引(話し合いで取引すること)で栄え、粋な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。​しかし、昭和3年(1928年)に市場は秋葉原へと移転し、その歴史に幕を下ろしました。 ​

関東大震災後の復興に伴い、昭和8年(1933年)に町名地番の改編が行われ、
旧多町一丁目と旧多町二丁目と新銀町【しろがねちょう】が合併して現在の多町二丁目町会が形成されました。​
その後、昭和41年(1966年)の住居表示の実施により、新たに作られた多町一丁目は内神田三丁目に編入されましたが、
多町二丁目は近隣住民などの反対により町名を維持し続けています。

昔の多町二丁目【たちょう にちょうめ 】は「鍾馗【しょうき】」の山車人形【だし にんぎょう】を持っている町会としても有名でした。
この人形は神田祭に出される人形の中でも一番大きくて、人形の靴から冠【かんむり】まで約4メートルの高さがあり、
顔の大きさが四斗樽【よんとだる】ほどあった、とても大きな山車【だし】として神田名物でした。

【神輿の特徴】
多町二丁目町会の現在の神輿は、昭和54年に新しく作り直されました。
台車寸法は3尺になり、胴が締り、大きな作りとなっています。
昔の神輿は大正9年に製作したもので、関東大震災前の貴重な神輿として、
現在は東京国立博物館に現存、保管されています。

中神田十三ヶ町連合 神田鍛治三会町会

2025年05月11日 14:42

【町会の特徴】
昭和8年に「鍋町【なべちょう】北の大部分・鍛冶町【かじちょう】北の一部・鍋町西横町の内の一部」等が統合して
「神田鍛冶町三丁目【かんだかじちょう3ちょうめ】」となりました。

「鍛冶町」【かじちょう】という名称は、江戸幕府の鍛冶方棟梁【かじがた とうりょう】であった高井伊織【たかい いおり】の
拝領屋敷がこの地にあったことに由来します。​1603年(慶長8年)の町割【まちわり】の際に「鍛冶町【かじちょう】」が誕生しました。

一方、現在の神田鍛冶町三丁目は、江戸時代には「鍋町(なべちょう)」と呼ばれていました。​
この名称は、江戸幕府の御用鋳物師【ごよういもじ】であった椎名山城【しいな やましろ】が屋敷を構えていたことに由来します。
鋳物師【いもじ】とは、鍋や釜をつくる職人のことです。
他にも御腰物金具師【おこしもの かなぐし】や御印判師【ごいんばんし】なども住んでいました。

鍋町【なべちょう】に住んでいたのは、このような御用職人【ごようしょくにん】ばかりではありません。
紅【べに】や白粉【おしろい】などの化粧品、傘、菓子、釘や打物【うちもの】などを扱う各種の問屋をはじめ、
馬具【ばぐ】や武具【ぶぐ】をつくる職人まで店を構えて住んでいました。

江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品が揃う町でした。
また、神田川沿いには河岸が設けられ、物流の拠点としても発展しました。

町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19〜21番地となっています。

【神輿の特徴】
神田鍛治三会町会の神輿は浅草岡田屋【おかだや】製です。
総勢350名の担ぎ手により宮入を行います。
宮入時の神輿振りに御注目下さい。
大興奮間違いなしです。

中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会

2025年05月11日 14:35

【町会の特徴】
江戸時代、この界隈【かいわい】は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。

この地域は、江戸時代初期の寛永【かんえい】12年(1635年)頃から、住民や寺院が強制的に移動させられ、
武家屋敷町に造りかえられたとされています。
古い絵図によれば、永井信濃守【ながい しなの のかみ】の屋敷が松平伊豆守【まつだいら いずのかみ】の屋敷となり、
のちに若狭小浜藩【わかさ おばまはん】酒井家の上屋敷【かみやしき】となりました。

明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目【かんだあわじちょう2ちょうめ】という名前が正式に付けられました。
町名の由来とされる淡路坂【あわじざか】は、鈴木淡路守【すずき あわじのかみ】の屋敷があったためと言われています。
 
明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立【きょうりつ】学校(後の開成【かいせい】学園)が創設されました。
ここでは正岡子規【まさおか しき】や南方熊楠【みなかた くまぐす】などが学びました。
また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉【ひぐち いちよう】も住んでいました。
淡路町は文化の町となり、その新進の気風【きふう】は町並みにも表れていました。
大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋【しょうへいばし】近くに活動常設館【かつどう じょうせつかん】という、
現在でいう映画館の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑【にぎ】わっていました。
 
町会の該当区域は淡路町二丁目【あわじちょう2ちょうめ】1〜29番地までの奇数番地となっています。

【神輿の特徴】
淡路町二丁目町会の神輿は、昭和52年の宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。
神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。

神田駅東地区連合 鍛冶町一丁目町会 2025.05.11

【町会の特徴】 江戸時代、この地域には金属加工に従事する職人が多く居住していました。​『武鑑【ぶかん】 』という資料によ ...

神田駅東地区連合 紺屋町南町会 2025.05.11

【町会の特徴】 神田紺屋町【かんだ こんやちょう】は、慶長【けいちょう】年間に徳川家康から 軍功【ぐんこう】として藍染 ...

神田駅東地区連合 神田須田町二丁目町会 2025.05.11

【町会の特徴】 江戸時代、この地域は八方から道が集まる「八つ小路」と呼ばれ、神田川や日本橋川などの運河に挟まれた交通の要 ...

神田駅東地区連合 北乗物町町会 2025.05.11

【町会の特徴】 北乗物町【きたのりものちょう】は、明治2年(1869年)に、元乗物町代地【もとのりものちょう だいち】、 ...

中神田十三ヶ町連合 司町一丁目町会 子ども神輿 2025.05.11

【町会の特徴】 司町一丁目の歴史は、江戸時代にさかのぼります。この地には、かつて三河町【みかわちょう】、皆川町【みながわ ...

中神田十三ヶ町連合 内神田美土代町会 2025.05.11

【町会の特徴】 町名の由来は、かつてこの地域に伊勢神宮【いせじんぐう】へ奉納する稲、初穂【はつほ】を育てる水田、「みとし ...

中神田十三ヶ町連合 須田町北部町会 2025.05.11

【町会の特徴】 須田町北部町会【すだちょう ほくぶ ちょうかい】は昭和8年に設立しました。   この地域は、かつて「須田 ...

中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会 2025.05.11

【町会の特徴】 多町二丁目【たちょう にちょうめ 】は神田の中でも古い町のひとつとで、徳川家康が江戸に幕府を開いた直後の ...

中神田十三ヶ町連合 神田鍛治三会町会 2025.05.11

【町会の特徴】 昭和8年に「鍋町【なべちょう】北の大部分・鍛冶町【かじちょう】北の一部・鍋町西横町の内の一部」等が統合し ...

中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会 2025.05.11

【町会の特徴】 江戸時代、この界隈【かいわい】は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。 この地域は、江戸時代初期の寛永【かんえ ...