
神田明神の例大祭である「神田祭」は、江戸時代から続く格式ある祭礼ですが、その中でも特に賑やかで人々の注目を集めていたのが「附け祭(つけまつり)」です。
附け祭とは、神幸祭の行列に続いて登場する、創作山車や踊り、仮装行列などで構成されるパレードです。
江戸時代、町人たちが自由な発想でつくりあげたこの附け祭は、神田祭の中でも最も人気があり、見物人で沿道が埋め尽くされるほどだったと伝えられています。
歴史上の人物や昔話、動物や風刺などをテーマにした出し物が次々と登場し、まさに「江戸のカーニバル」。現代でもその伝統は受け継がれており、地域の人々が工夫を凝らして創作行列を披露しています。
神事としての厳かさと、庶民のユーモアと創造力が融合した「附け祭」。
その華やかさと活気に触れれば、きっと江戸の人々の心意気を感じられることでしょう。
神田祭に足を運ぶ際には、ぜひこの附け祭にもご注目ください!
【町会の特徴】
中央区日本橋。 その東の一角に、町の名に“貝の殻”をもつ、ちょっと変わった名前の町があります。
その名も、蠣殻町【かきがらちょう】。
そして今、その町の暮らしとつながりを見守るのが、蠣殻町東部町会です。 東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目全域を管轄する町会です。
かつてこの一帯は、江戸湾の干潟に近い場所。 貝や牡蠣の殻があちこちに積もっていたことから、町はやがて“蠣殻町”と呼ばれるようになりました。
時が進むにつれ、町は海産物問屋や乾物屋、倉庫、船問屋などが集まる商いの町へと変貌。
水路と陸路が交わるこの場所は、江戸の物流を支える、大切な拠点となっていったのです。
旧蛎殻町二丁目と元大坂町【もとおおさかちよう】の地域には、江戸後期から明治2年まで江戸幕府の銀貨鋳造【ちゅうぞう】所が
設置され、寛永通宝【かんえいつうほう】の四文銭【しもんせん】を鋳造【ちゅうぞう】していました。
銀座役所と呼ばれ、もともとは京橋に設置されていましたが、当地に移転してきてから「蛎殻銀座【かきがら ぎんざ)」と
呼ばれるようになったそうです。
明治になると、町は“日本橋蠣殻町”として正式に名を持ち、近隣には、安産祈願で名高い水天宮がやってきました。 町は門前町としてもにぎわい、参詣客や商人たちが絶えず行き交いました。
戦後、町の再編とともに誕生したのが、蠣殻町東部町会。
防災訓練、清掃活動、高齢者の見守りや子ども支援など、地域の絆をつなぎ続けています。
【町会の特徴】
魚河岸会(うおがし かい)は、日本橋から築地、そして豊洲へと続く、魚市場の関係者による団体です。
魚河岸水神社(うおがし すいじんじゃ)や、加茂・能人形山車(かも・のう にんぎょう だし)の管理・運営を行っております。
神田祭に華を添える加茂・能人形山車(かも・のう にんぎょう だし)は、江戸時代から続く、伝統的な江戸型山車(えどがた だし)。
その姿は、江戸の祭礼文化(さいれい ぶんか)を今に伝える、きわめて貴重な存在です。
本来は、牡(おす)の黒牛(くろうし)一頭で曳(ひ)き回すものですが、今回は人力での曳行(えいこう)となります。
最上部には、能(のう)の演目「加茂(かも)」に登場する、「別雷神(わけいかずちのかみ)」が飾(かざ)られています。
この神は、京都・上賀茂神社(かみがも じんじゃ)に祀(まつ)られ、五穀豊穣(ごこく ほうじょう)と国土守護(こくど しゅご)を
祈り、舞台を勇壮(ゆうそう)に舞います。
江戸時代、加茂・能人形山車(かも・のう にんぎょう だし)は、天下祭において十番目に曳(ひ)き出されておりました。
天保(てんぽう)9年、第十二代将軍・家慶公(いえよし こう)の時代にも、江戸市中を巡行した45台の山車(だし)のうち、
10番目だった記録が山車番付(だし ばんづけ)に残されています。
江戸型山車(えどがた だし)の特徴である、二段上下可変式(にだん じょうげ かへんしき)の三層構造も受け継がれており、
江戸城の城門、約4.4メートルを通過するための工夫が施されています。
能人形(のう にんぎょう)の衣装や中段、下段の幕には、すべて職人の技による豪華絢爛な刺繍と織が施され、見る人を圧倒)します。
関東大震災で初代(しょだい)の山車(だし)は焼失しましたが、明治15年に製作された1/10の模型をもとに、昭和30年、
築地市場 開設20周年を記念して復元されました。今年で復元70年を迎(むか)えます。
この山車(だし)は、東京都中央区より「区民有形民俗文化財(くみん ゆうけい みんぞく ぶんかざい)」に指定(してい)されています。
また、魚河岸水神社(うおがし すいじんじゃ)は、天正(てんしょう )18年、徳川家康(とくがわ いえやす)の
江戸入府(えど にゅうふ)にともない、日本橋魚市場の開祖(かいそ)、森孫右衛門(もり まごえもん)が、
大漁安全、子孫繁栄、徳川家の武運長久(ぶうん ちょうきゅう)を祈願し、神田明神境内に創建したのが始まりです。
明治34年には、現在の神田明神境内に社殿を新築し、「魚河岸水神社(うおがし すいじんじゃ)」と改称(かいしょう)。
以来(いらい)、日本橋魚市場(にほんばし うおいちば)の守護神(しゅごしん)として親しまれています。
今回の神田明神 境内巡行(けいだい じゅんこう)は、
本年三月、魚河岸水神社本殿(うおがし すいじんじゃ ほんでん)の修復完了を記念して実施されるもので、歴史上、初めてのこととなります。
福徳神社の献饌が行われました。
福徳神社は薬祖神社の隣、コレド室町の裏手にあります。
平安時代の貞観年間(859〜877年)の創建と伝えられるこの神社は、長い歴史の中で江戸の町人文化とともに歩んできた由緒ある神社です。
室町時代から江戸時代にかけては、武将や豪商たちからも厚く信仰され、江戸幕府を開いた徳川家康公からも社領を賜るなど、その重要性は非常に高いものでした。
当時は「福徳稲荷大明神」として知られ、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全の神として、地元の商人や住民の信仰を集めていました。
江戸時代中期には、周辺が呉服問屋や薬種商が軒を連ねる日本橋の中心地として発展し、福徳神社もまた地域の繁栄の象徴として大切にされました。
しかし、大正時代の関東大震災や第二次世界大戦の空襲で社殿は失われ、その後は仮殿での祀りが続いていました。
現在の社殿は、再開発事業「日本橋再生計画」の一環として、2014年に再建されたものです。
近代的なビルに囲まれながらも、伝統と格式を保ち続ける姿は、多くの人の心に安らぎと力を与えています。
境内の「福徳の森」は、都心にいながら四季の移ろいを感じられる静かな空間。
訪れる人々にとって、神社というよりも“憩いの庭”のような存在となっています。
お参りのあとは、すぐ近くの薬祖神社やコレド室町でショッピングやグルメも楽しめる、日本橋らしい文化と現代が融合した魅力的なエリアです。
今回で4回目の薬祖神社奉賛会の献饌が行われました。
中央区日本橋本町に鎮座する薬祖神社は、薬の神様として広く知られ、医薬・健康を願う多くの人々に信仰されています。
日本医薬総鎮守として崇敬を集めるこの神社を支えるのが、「薬祖神社奉賛会」です。
薬祖神社奉賛会は、薬業界に携わる関係者を中心に構成されており、薬祖神社の祭事の運営や維持、地域とのつながりを大切にしながら、伝統を守り続けています。
例年10月17日に行われる例祭では、業界関係者が多数参列し、医薬の発展と人々の健康を祈願する厳かな儀式が執り行われます。
また、薬祖神社奉賛会は、地域との交流や次世代への文化継承にも力を入れており、医薬に携わる人々の心の拠り所としての役割も担っています。
健康と薬の神様に思いを馳せながら、ぜひ一度、薬祖神社とその活動を支える奉賛会にも注目してみてください。
薬祖神社はコレド室町の裏手にあります。
日本橋三越本店本館前では、株式会社三越によります献饌が行われました。
東京・日本橋にある「日本橋三越本店本館」は、日本を代表する百貨店であり、明治37年(1904年)に「三越呉服店」として誕生しました。
しかしそのルーツは、なんと江戸時代にまでさかのぼります。
三越の前身は、延宝元年(1673年)に創業した越後屋呉服店。
江戸本町一丁目(現在の日本橋室町付近)に店を構え、「現金掛け値なし」「店先売り」という画期的な販売方式で一世を風靡しました。
当時の呉服商といえば、得意客との付き合いが基本でしたが、越後屋は誰でも気軽に商品を手に取れる商いを始め、町人文化の発展と共に江戸の商業を牽引しました。
その精神を引き継ぎ、明治以降に百貨店として進化したのが日本橋三越です。
本館の建物は昭和10年(1935年)に完成。
ルネサンス様式の壮麗な意匠は、国の重要文化財にも指定されています。
中央ホールの大理石柱や美しい天井のステンドグラスは、まさに日本の近代建築と商業の粋を集めた空間です。
今でも本館正面には「ライオン像」が来客を出迎え、店内には伝統と革新が融合した品々が並びます。
江戸から続く商いの心と、日本橋の歴史を体感できる、日本が誇る老舗百貨店です。
日本橋の中央通りでは、附け祭の行列も合流し、巡行は一段と賑やかさがUPしました。
山本海苔店前では、山本𣳾人総代によります献饌が執り行われました。
行列が通過しているのは、日本を代表する歴史ある地「日本橋」。
江戸時代の幕開けとともに、1603年に初代の日本橋が架けられ、東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の五街道の起点として、日本中から物資や人々が集まり、まさに「江戸の玄関口」として繁栄を極めました。
現在の日本橋は、1911年(明治44年)に完成した石造りのアーチ橋で、国の重要文化財にも指定されています。
橋の中央には「日本国道路元標」が設置され、ここを基準として全国の道路が測られています。
いわば、日本橋は今もなお「日本の起点」としての役割を果たしているのです。
かつて、日本橋には日本を代表する魚市場、いわゆる「日本橋魚河岸」が存在しました。
江戸時代から明治・大正にかけて、江戸・東京の食文化を支える台所としてにぎわいを見せていました。
その後、関東大震災や都市整備の影響で魚河岸は築地へ、そして現在は豊洲へと場所を変えましたが、その由緒ある歴史は今も人々の記憶に刻まれています。
この由縁から、神田明神の境内には「魚河岸水神社(うおがしすいじんじゃ)」が祀られており、築地魚河岸会の方々が今でも参拝に訪れ、商売繁昌と安全を祈願しています。
江戸時代から続く市場文化と信仰の深いつながりを感じさせる場所です。
さらに日本橋の周辺には、老舗の和菓子店や呉服屋、筆屋などが軒を連ね、江戸の情緒を色濃く残しています。
一方で、再開発が進む街並みには高層ビルや現代的な商業施設も建ち並び、伝統と革新が見事に融合しています。
かつての旅人たちが歩いた道、商人たちが賑わった市場、そして今も多くの人々が行き交う街・日本橋。時代を超えて愛されるこの場所には、日本の歩みと未来が凝縮されています。
江戸から現代へ、変わらぬにぎわいと誇りを胸に、日本橋を歩いてみてはいかがでしょうか。
【町会の特徴】
馬喰町一丁目は「馬喰町一丁目 一の部町会」「同じく二の部町会」「三の部町会」と3つに分かれています。
その2つの町会が合同で馬喰町一丁目としてお祭りを行います。
馬喰町一丁目は商業地区で、お隣の横山町町会と道を隔てて向かい合った問屋街と、江戸通りをはさんだ両側となります。
お神輿は江戸通りの上り下りとも巡行いたします。
また、江戸通り裏のマンションが多い地区も巡行いたします。
現在の馬喰町1丁目の様子は問屋、企業、マンションと地に根をはられている方々、務められている方々、
住まわれている方々とその割合は変化しつつあります。
また、お祭りの核となる方々にも変化があり、今まで出来なかったこの宮入も、
それが良い方向へ向かったおかげで行うことができました。
時代の流れを直に行ける商業地ではありますが、歴史と伝統を上手く生かしながら、
時代に合わせることで継続していく力のある町会です。
今回で4回目の宮入で、担ぎ方はまだまだですが「とにかく楽しく」をテーマにお祭りを楽しんで行っております。
【神輿の特徴】
昭和二十二年に造られた立派な御神輿は、今なお町の誇りとして受け継がれています。
その屋根の上には、羽を広げた大きめの鳳凰が威風堂々と座し、晴れの日を見守ります。
御神輿の前面には「馬一」と刻まれた駒札が掲げられ、まさに馬喰町一丁目の魂を体現する姿です。
飾紐【かざりひも】には、町内の絆を象徴する紫色が選ばれ、その気品ある色合いが、御神輿全体を引き締めています。
担ぎ手たちが羽織る萌黄色【もえぎいろ】の半纏【はんてん】には、
背中いっぱいに象形文字の「左馬」が染め抜かれています。
「左馬」は、“馬が逆立ちして福を呼ぶ”という縁起の良いしるし。
その一文字には、町の繁栄と安全、そして祭りを通して人と人をつなぐ想いが込められています。
【町会の特徴】
昭和9年8月それまでの「横山町一丁目、同二丁目の北大部、三丁目の西大部、
通塩町(とおりしおちよう)の南大部」をあわせて横山町とし、
昭和46年4月、住居表示実施により日本橋横山町になりました。
甲州街道の、本町通り両側に開けた町で、一〜三丁目がありました。
慶長年間(けいちょうねんかん)に西本願寺がありましたが、明暦(めいれき)三年の大火の後、
西本願寺は築地に移りました。
跡地には町屋が開かれ、主要街道筋にあったため、商店街として急速に発展して行きました。
町名の由来は御家人(ごけにん)、横山某(よこやま なにがし)の知行地(ちぎょうち)
であったことによると言わています。
横山町町会のお神輿は、今回で4回目の宮入です。
行列は、10月19日、20日に行われる「べったら市」で有名な、寳田恵比寿神社の前を通過中です。
商売繁昌の守護神として多くの人々から崇敬を集める寳田(たからだ)恵比寿神社は、明治6年より神田明神の兼務社となった、歴史ある神社です。
創建年代は不詳ながら、徳川家康の江戸入府以前には宝田村の鎮守社として祀られていたとされます。
江戸城拡張により宝田村が移転を命じられたことで、現在の大伝馬町に遷座しました。
当地は金銀為替、駅伝、水陸交通の要所として非常に栄え、神社もその繁栄とともに歩んできました。
御神体の恵比寿神像は運慶作と伝えられ、徳川家康公より下賜されたものともいわれています。
毎年秋の風物詩「べったら市」は、この寳田恵比寿神社を中心に開催され、東京を代表する伝統行事の一つとして多くの人々でにぎわいます。
神幸祭の行列がこの前を通るのも、地域と祭りの深い絆を感じさせる場面です。
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