
【町会の特徴】
岩本町三丁目町会【いわもとちょうさんちょうめちょうかい】は、東京都千代田区岩本町三丁目および神田岩本町全域を管轄する町会です。
「岩本町」【いわもとちょうという名称の由来は明確ではありませんが、江戸時代中期以降の地図にこの名称が見られるようになります。
嘉永【かえい】 3年(1851年)の「嘉永新版【かえいしんぱん】の神田浜町絵図」では、
藍染川【あいぞめがわ】に架かる弁慶橋【べんけいばし】の南側に「岩本町」【いわもとちょう】が記載されています。
江戸時代初期、この地域は沼地で、雁渕【がんぶち】や笹原【ささはら】と呼ばれていました。
最初に住み始めたのは大名や旗本などの武士たちでしたが、江戸時代後半になると商人や職人が集まり、町は次第に栄えていきました。
特に、神田川南岸【なんがん】の柳原土手【やなぎはらどて】周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
明治14年(1881年)には、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にかけて「岩本町古着市場」が開設され、
最盛期には約400軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝えられています。
昭和に入ると、町内には四階建てのビルが登場し、「和泉橋【いずみばし】ダンスホール」が併設されるなど、地域の発展が続きました。
現在は数こそ少なくなってきましたが、岩本町は日本の繊維業界とともに発展してきた町です。
町会の該当区域は、岩本町三丁目及び神田岩本町全域となっています。
【神輿の特徴】
本町三丁目町会の神輿は、東京浅草の著名な神輿師である宮本重義氏【みやもと しげよし】の第一号特注品として、昭和28年(1953年)5月に完成しました。
台輪幅【だいわはば】は2尺5寸(約75.8cm)、高さは7尺8寸(約236.4cm)で、
唐破風漆塗神社型【からはふ うるしぬり じんじゃがた】の作風が特徴です。
鳥居や昇り龍・降り龍の彫刻が施され、極彩色【ごくさいしき】の豪華絢爛なデザインとなっており、
神田明神氏子、百八ヶ町【ひゃくはっかちょう】の中でも最高の傑作と自負しております。
【町会の特徴】
室町一丁目【むろまちいっちょうめ】は、昭和7年に、「旧室町一丁目・二丁目」等の町が合併して、室町一丁目となりました。
江戸時代初期、徳川家康の入国後にこの地域は町屋として開かれ、江戸第一の繁華街として発展しました。
また、江戸時代から明治初年まで、江戸=東京の目抜き通りであった「本町筋」【ほんちょうすじ】が通っており、
商業の中心地として栄えました。
さらに、全国各地から商人や職人が集まり、地域のシンボルである名橋「日本橋」は五街道の起点となりました。
日本橋魚河岸【にほんばし うおがし】、呉服屋【ごふくや】、両替店【りょうがえてん】が栄え、
水運にも恵まれ、多種多様な物資が集結・流通する場所として現在にまで至り、老舗となっている店も多く、
商業・金融の中心地となっています。
室町一丁目内【むろまちいっちょうめ】にある「三越【みつこし】」は、延宝【えんぽう】元年(1673)に越後屋号【えちごや ごう】で
旧本町【ほんちょう】一丁目に店を出し、「店前 現銀 無掛値【たなさき げんぎん かけねなし】 」の看板を掲げ、
現金による正札【しょうふだ】販売商法と、切り売り商法の新商法によって今日になすまでとなりました。
明治37年「三井の越後屋【みついの えちごや】」を二字につめて「三越【みつこし】」と改めたと言われています。
遠方のため神社への宮入は行っていませんでしたが、平成17年より、
町会長を中心とした日本橋会の皆様の協力によって宮入ができるようになりました。
町会の該当区域は、日本橋室町一丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。大神輿【おおみこし】は昭和13年、
後藤 直光【ごとう なおみつ】作です。
大きさは2尺8寸、平屋台【ひらやたい】、三方胴羽目【さんぼう どうはめ】です。
扇木【おうぎ】や厚手の鋳物【いもの】、彫金【ちょうきん】で細工され、木彫【きぼり】を施さない飾り神輿です。
鳳凰【ほうおう】の翼が大きく、首が長いことも特徴の一つです。
【町会の特徴】
宮本町【みやもとちょう】は、元和2年(1616年)に神田明神が現在の場所に鎮座【ちんざ】した際、
神主【かんぬし】が寺社奉行所【ぶぎょうしょ】に願い出て、商人や職人が住む町をつくりました。
これが神田明神門前町【もんぜんちょう】 、神田明神表門前【おもてもんぜん】、神田明神裏門前【うらもんぜん】、
神田明神西町【にしまち】の門前町です。
明治2年(1869)に四つの町が合併し、神田明神門前町【もんぜんちょう】となった後、
明治5年(1872)には境内などの社地【しゃち】を編入して、神田宮本町【かんだ みやもとちょう】となりました。
「宮本」という名称は、江戸総鎮守である神田明神の「宮のもと」という意味を持ち、住民たちの誇りと心意気が込められています。
宮本町には、明治10年(1877)創業、開花【かいか】三十六席にも選ばれた「開花楼【かいかろう】」がありました。
ここは海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、
通人【つうじん】、粋人【すいじん】が集う場所として知られ、東京名所図会【とうきょう めいしょずかい】など、
多くの書物に残されています。
また、単に料理屋として著明【ちょめい】であるばかりではなく、書画店【しょがてん】や古書市【こしょいち】、
見本市【みほんいち】等、当時としては貴重な文化事業も多く開催されました。
明治18年(1885年)2月12日には湯島で火災が発生し、開花楼も被害を受けましたが、その後改修され、
再び多くの人々に利用されるようになりました。
町会の該当区域は、外神田二丁目16〜19番地、7番1号・4号の一部となっています。
【神輿の特徴】
宮本町会の神輿は、子供神輿を出します。
本年は神田明神の中神輿【ちゅうみこし】を担いで宮入します。
昭和35年、宮惣【みやそう】の製作によるものです。
迫力があり、熱気あふれる、力強い担ぎっぷりにご注目下さい。
【町会の特徴】
神田金澤町【かんだかなざわちょう】は、神田明神下【かんだみょうじんした】にあり、御成街道【おなりかいどう】に沿った
町屋【まちや】でした。その名称と歴史は江戸時代初期に遡ります。
江戸時代初期、加賀藩 前田家は神田神社近くに上屋敷【かみやしき】を拝領しました。
加賀藩の藩主の居城【きょじょう】が金沢にあったことから、「金澤【かなざわ】藩」とも称されていました。
このため、前田家の上屋敷【かみやしき】があったこの地域は金澤町【かなざわちょう】と呼ばれるようになりました。
1657年(明暦3年)の明暦の大火【めいれきのたいか】により、江戸の大半が焼失しました。
この大火を契機に、幕府は都市計画の見直しを行い、大名屋敷を上屋敷【かみやしき】 ・中屋敷【なかやしき】 ・下屋敷【しもやしき】
に区分する政策を打ち出しました。
この政策により、加賀藩前田家は神田神社近くに上屋敷を構えることとなりました。
商人や職人の町として発展を続けた金澤町には、多種多様な店があったようで、
文政【ぶんせい】7年(1824)に書かれた「江戸買物独案内【えど かいもの ひとりあんない】」には、
「やけど妙薬【みょうやく】」で知られた田村万兵衛【たむら まんべえ】、
「鼻紙袋【はながみぶくろ】」や「煙草【たばこ】入れ」を扱う津久田屋【つくだや】、
瀬戸物問屋【せともの どんや】である玉川卯兵衛【たまが わうへえ】といった商人たちの名前が記載されています。
【神輿の特徴】
神田金澤町会の神輿は、昭和36年(1961年)に宮本重義氏によって制作されました。
美しい装飾が施されたこの神輿は、神田祭などの地域行事で活躍し、迫力のある担ぎぶりが特徴です。
【町会の特徴】
ここは、東京都千代田区外神田三丁目。 江戸の昔から、人々の暮らしとともに歩んできた場所。この地に根を下ろし、いまもまちを支えるのが、神田末廣町会【かんだすえひろちょうかい】です。
江戸時代、この界隈には、町人の住む町屋と武家の屋敷が隣り合い、人々は、商いと武士道、異なる暮らしの中で静かに共存していました。南には、神田平永町代地【かんだ ひらながちょう だいち】や柳原岩井町代地【やなぎはら いわいちょう だいち】、北には越後村松藩【えちご むらまつはん】 ・堀家の上屋敷。 ここは、まさに江戸という都市の縮図ともいえる場所でした。
しかし、明治維新の波がこの町にも押し寄せます。
明治元年(1868年)の戊辰【ぼしん】戦争の戦闘の1つ上野戦争では、この界隈も戦火に見舞われ、
多くの町民が家屋や家族を失いました。
そんな廃墟と化した町に、明治二年(1869年)人々は新たな願いをこめて、この地に名をつけました。それが――末廣町。 “末広がり”の名に託したのは、『これからの町が平和と繁栄に向かいますように』という、深い祈りと希望でした。
時は流れ、昭和の世。 この地はやがて、秋葉原電気街として大きく発展します。冷蔵庫、ラジオ、カメラ、そしてコンピューター。 最先端の電気文化が、末廣町の通りに集まりました。
変わりゆく都市の中で、町の伝統を守り、人と人をつなぎ続けているのが、神田末廣町会。
それは、戦火を越えた祈りの町名と、江戸と令和をつなぐ“まちの力”そのものです。
【神輿の特徴】
町会の神輿は大正15年(1926年)に神田の名匠「だし鉄」によって作られたもので、屋根は金梨【きんなし】造りで、大きさは2尺3寸です。
神田神社氏子町会で現存する神輿の中では最も古いとされています。
【町会の特徴】
「五軒町【ごけんちょう】」の名前の由来は、江戸時代、この界隈【かいわい】に、
上総久留里藩【かずさくるりはん】黒田家【くろだけ】上屋敷【かみやしき】、
下野黒羽藩【しもつけくろばねはん】大関家【おおぜきけ】上屋敷【かみやしき】 、
安房勝山藩【あわかつやまはん】酒井家【さかいけ】上屋敷【かみやしき】 、
播磨林田藩【はりまはやしだはん】建部家【たてべけ】上屋敷【かみやしき】 、
信濃上田藩【しなのうえだはん】松平家【まつだいらけ】下屋敷【しもやしき】と、
5つの大名屋敷【だいみょうやしき】が並んでいたことから五軒町【ごけんちょう】と名付けられました。
明治維新後、これらの大名屋敷は政府により接収され、桑や茶の植え付け地となりました。
明治5年(1872年)には「神田五軒町」【かんだ ごけんちょう】と命名されました。
その後、明治30年代には、人家【じんか】が立ち並ぶようになり、てんぷらの名店や寄席【よせ】などができ、町は大いに賑わいました。
明治44年(1911年)には「五軒町」【ごけんちょう】と改称されましたが、昭和22年(1947年)に神田区と麹町区が合併して
千代田区となった際に再び「神田五軒町」【かんだ ごけんちょう】となりました。
その後、昭和39年(1964年)の住居表示実施に伴い、外神田六丁目となりました。
神田五軒町々会【かんだ ごけんちょう ちょうかい】 は、明治38年(1905年)に住民を中心とした自治会として発足しました。
以来、神田の地の気質を受け継ぎ、現在も活発な活動を続けています。
【神輿の特徴】
神田五軒町々会の神輿は、昭和52年に作られました。
屋根唐破風型【やねからはふがた】白木【しらき】造り総彫刻【そうちょうこく】です。
重さ約300キロ、台座2尺3寸(約70cm)、高さ6尺8寸(約200cm・鳳凰を含む)、幅4尺7寸(約150cm)、親棒【おやぼう】の長さ16尺(約500cm)という大神輿です。
数年前、約30年振りに総仕上げ直しをし、美しく輝いた神輿へと生まれ変わりました。
担ぎ手総数は350名にのぼります。
【町会の特徴】
神田松富町会(かんだまつとみちょうかい)は、東京都千代田区外神田四丁目6番から13番を管轄する町会です。
江戸時代の外神田四丁目【そとかんだよんちょうめ】周辺には武家屋敷【ぶけやしき】以外に、商人や職人の住居が立ち並ぶ
「松下町二丁目【まつしたちょう にちょうめ】」、「松下町三丁目【まつしたちょう さんちょうめ】」、
「永富町三丁目【ながとみちょう さんちょうめ】」と呼ばれる町屋【まちや】が存在していました。
明治2年(1869)、これら三町【さんちょう】が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、
松富町【まつとみちょう】が誕生しました。
この名前は、松下町【まつしたちょう】と永富町【ながとみちょう】から一文字ずつ取ってつくられたものです。
町の真ん中を走る現在の中央通りにあたる道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺【かんえいじ】へ参詣【さんけい】するときに
通る道でもありました。
特に毎年正月十日に行われた「正月御成【しょうがつ おなり】」では、将軍は必ずここを通ったので、
道の名前まで御成道【おなりみち】と呼ばれるようになりました。
因みに、将軍御成【しょうぐん おなり】の当日は、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです。
昭和40年頃までは、町内には稲倉魂命【うかの みたまの みこと】を祀【まつ】る三社稲荷【さんしゃいなり】がありました。
講武所【こうぶしょ】の芸者の参詣【さんけい】は頻繁【ひんぱん】にあったと言われています。
【神輿の特徴】
神田松富町会の神輿は、昭和53年に宮本 重義【みやもと しげよし】の手により作られました。
迫力のある宮入を是非ご注目下さい。
【町会の特徴】
万世橋町会(まんせいばしちょうかい)は、東京都千代田区外神田一丁目の一部を管轄する町会です。
外神田一丁目の一帯は、神田川に架かる橋の名に因【ちな】んで万世橋【まんせいばし】と呼ばれています。
万世橋の名前は、明治6年(1873)、昌平橋【しょうへいばし】よりもやや下流に架けられた
「萬世橋【よろずよばし】 」に由来します。
完成時は萬世橋「よろずよばし」と命名されていましたが、いつしか「まんせいばし」と音読みされるようになり、
明治36年(1903年)に現在の場所に架け替えられました。
また、万世橋は日本初の石橋でもあり、眼鏡橋【めがねばし】と呼ばれたりもしています。
江戸時代、この界隈は、下谷御成道【したやおなりみち】へ出る道筋に位置し、人々が行き交う町でした。
また、神田川河岸【かし】で年貢米【ねんぐまい】や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。
電気街として有名な秋葉原もこの万世橋地区内にあり、戦前から電気部品やラジオなどを扱う卸問屋や小売店が存在していました。
しかし、戦時下の空襲により一帯は焼け野原となりました。
その後、昭和24年(1949年)に連合軍の命令で、須田町や小川町界隈にあった電気関係の露天商が秋葉原駅のガード下に移動し、
これが現在の世界的に有名な電気街・秋葉原の基礎となりました。
町会の該当地域は、JR秋葉原電気街口周辺の、外神田一丁目1番地8〜14号、2番地、4番地9〜17号、10〜17番地
となっています。
【神輿の特徴】
外神田一丁目万世橋町会の神輿は、昭和35年、宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。
神田祭においても、比較的大きな神輿となっています。ぜひご堪能ください。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
【町会の特徴】
神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】は、かつて東京都千代田区外神田五丁目に位置していた町名です。
江戸時代、この地域には豊前小倉藩【ぶぜん こくらはん】小笠原【おがさわら】家の中屋敷【なかやしき】が存在していました。
明治2年(1869年)12月、神田相生町【かんだあいおいちょう】から出火した大火が外神田周辺を焼き尽くしました。
この火災後、明治新政府は神田佐久間町一丁目内にあった神田柳屋敷【かんだ やなぎやしき】などを、防火のための空き地である
火除地【ひよけち】として指定しました。
そのため、そこに住んでいた人々が代地【だいち】として小笠原家屋敷跡に移転してきました。
この時に、神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】の町名が生まれました。
「元【もと】」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町【かんださくまちょう】と
区別するために付けられました。
明治44年(1911年)に、元佐久間町【もとさくまちょう】と改称【かいしょう】されましたが、
昭和22年(1947年)に、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】となりました。
昭和39年(1964年)に、住居表示の実施により、神田元佐久間町【かんだもとさくまちょう】は外神田五丁目となりました。
【神輿の特徴】
外神田五丁目元佐久間町会の神輿は昭和5年(1930年)に宮惣【みやそう】の手によって制作された
歴史あるものです。
地域の伝統と文化を今に伝えています。
【町会の特徴】
神田旅籠町【かんだ はたごちょう】は、昌平橋【しょうへいばし】の北側にあたり、江戸時代から昭和期にかけて存在した町名で、現在の東京都千代田区外神田一丁目および三丁目の一部に該当します。
旅籠町【はたごちょう】の名称は、中山道【なかせんどう】の第一の宿場【しゅくば】である板橋宿【いたばししゅく】、
日光御成街道【にっこう おなりかいどう】の宿場町である川口宿【かわぐちしゅく】への街道筋【かいどうすじ】として、
旅籠【はたご】が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町【はたごちょう】」と呼ばれるようになりました。
「日光御成街道【にっこう おなりかいどう】」は、江戸幕府の徳川将軍が日光参拝の際、
必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。
こうした重要な街道の拠点となる町が旅籠町【はたごまち】だったのです。
そして「旅籠」とは、江戸時代、旅人を宿泊させ食事を提供させることを生業【なりわい】とする家のことでした。
旅籠という言葉自体はもともとは、旅の時に馬の飼料を入れる籠【かご】の意味が、旅人の食物雑品【しょくもつ ざっぴん】を入れる
籠【かご】の意味になり、さらに転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋というようになりました。
明治に入ると、旅籠町【はたごちょう】は宿場町から商業地へと姿を変えていきます。1886年(明治19年)には、後の伊勢丹となる
「伊勢屋丹治呉服店【いせや たんじ ごふくてん】 」がこの地で創業。商人たちの賑わいは、時代を超えて続いていきました。
【神輿の特徴】
神田旅籠町会の神輿は昭和33年に南部屋 五郎右衛門【なんぶや ごろうえもん】によって作られました。
平成17年3月13日に神輿を、2尺5寸から2尺7寸へと大きくし、ますます迫力を増しました。
総勢300名の担ぎ手により、宮入りします。
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