外神田地区連合 神田末廣町会

25.05.11

【町会の特徴】
ここは、東京都千代田区外神田三丁目。 江戸の昔から、人々の暮らしとともに歩んできた場所。 この地に根を下ろし、いまもまちを支えるのが、神田末廣町会【かんだすえひろちょうかい】です。

江戸時代、この界隈には、町人の住む町屋と武家の屋敷が隣り合い、人々は、商いと武士道、異なる暮らしの中で静かに共存していました。 南には、神田平永町代地【かんだ ひらながちょう だいち】や柳原岩井町代地【やなぎはら いわいちょう だいち】、 北には越後村松藩【えちご むらまつはん】 ・堀家の上屋敷。 ここは、まさに江戸という都市の縮図ともいえる場所でした。

しかし、明治維新の波がこの町にも押し寄せます。
明治元年(1868年)の戊辰【ぼしん】戦争の戦闘の1つ上野戦争では、この界隈も戦火に見舞われ、
多くの町民が家屋や家族を失いました。​
そんな廃墟と化した町に、明治二年(1869年)人々は新たな願いをこめて、この地に名をつけました。 それが――末廣町。 “末広がり”の名に託したのは、『これからの町が平和と繁栄に向かいますように』という、深い祈りと希望でした。

時は流れ、昭和の世。 この地はやがて、秋葉原電気街として大きく発展します。 冷蔵庫、ラジオ、カメラ、そしてコンピューター。 最先端の電気文化が、末廣町の通りに集まりました。

変わりゆく都市の中で、町の伝統を守り、人と人をつなぎ続けているのが、神田末廣町会。
それは、戦火を越えた祈りの町名と、江戸と令和をつなぐ“まちの力”そのものです。

【神輿の特徴】
町会の神輿は大正15年(1926年)に神田の名匠「だし鉄」によって作られたもので、屋根は金梨【きんなし】造りで、大きさは2尺3寸です。
神田神社氏子町会で現存する神輿の中では最も古いとされています。