
多くの皆様のご視聴ありがとうございました。
10日・11日両日放送しました令和7年神田祭 神幸祭・神輿宮入は、アーカイブでご覧いただけます。
番組への感想は、mail@kandamatsuri.ch までお送りください。
本日の神輿宮入の最後は、名誉宮司・総代・神職・巫女・関連業者による神田明神大神輿の神輿宮入です。
また、千代田区長、ゲストで出演いただいた稲川淳二さんも担ぎ手としての宮入です。
【町会の特徴】
東日本橋二丁目町会【ひがしにほんばし2ちょうめちょうかい】はかつては両国【りょうごく】と呼ばれていました。
明暦の大火【めいれきのたいか】後の万治【まんじ】2年(1659)に、両国と両国橋の西側の町に橋が架かり、
交通上賑【にぎ】やかな地となりました。
火事の多い江戸に鑑【かんが】みて二度と災害の悲劇を繰り返さぬ様にと各所に火除地【ひよけち】を設けました。
両国【りょうごく】にも中央区側に広小路【ひろこうじ】が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。
いつの間にかこの空地を利用して軽業【かるわざ】や見世物小屋が並び、水茶屋【みずぢゃや】、喰べ物見世【みせ】などで
江戸で一番の賑やかで、華やかな場所になっていきました。
その賑やかさ・混雑ぶりは大変なもので、様々な本に出ているほどでした。
明治維新後は商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新【めんもくいっしん】した賑やかな商店街になっていきました。
また、米沢町【よねざわちょう】は、多くは船宿【ふなやど】の中心地であり、両国の川開きや花火と共に
忘れることの出来ない町です。
米沢町【よねざわちょう】から元柳町【もとやなぎまち】にかけては、
船宿と共に有名な柳橋花街【やなぎばし はなまち】です。
これが両国の景況【けいきょう】を明治になって支えていたといえます。
町会の該当区域は、東日本橋二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
東日本橋二丁目町会の神輿は、
昭和35年、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。
尚、平成15年には江戸開府400年、平成27年は御遷座【ごせんざ】 400年をお祝いして
船渡御【ふなとぎょ】を挙行しました。
宮入の熱気と迫力を感じてください!
【町会の特徴】
東日本橋三丁目橘町会【ひがしにほんばし3ちょうめ たちばなちょうかい】は古くは橘町【たちばなちょう】と
呼ばれた地域で、昭和46年の住居表示実施で現町名になりました。
江戸の初期には西本願寺【にしほんがんじ】の別院【べついん】やその末寺【まつじ】がありました。
この西本願寺別院【にしほんがんじ べついん】は元和【げんな】7年(1621)3月
准如上人【じゅんにょ しょうにん】が創建【そうけん】したもので、江戸海岸御坊【えどかいがん ごぼう】、
と呼ばれたと言います。
明暦の大火【めいれきのたいか】で、お堂の建物は延焼し跡形もなくなり、築地に移転復興しました。
その跡地は松平越前守【まつだいら えちぜんのかみ】の邸地【ていち】となり、
天和【てんな】3年(1683)の邸地【ていち】移転に伴って、町地になりました。
西本願寺のあった頃、門前【もんぜん】に立花【たちばな】を売る店が多かったので、
町の名を橘町【たちばなちょう】と付けたと言われています。
当町会は繊維関係の問屋が多く、今でも着物が似合う粋な旦那衆【だんなしゅう】が町会を支えています。
町会の該当区域は、東日本橋三丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
東日本橋三丁目橘町会の神輿は、
昭和42年に新たに町会有志にて寄贈されたものです。
紺に染め抜いた青伴天【あおはんてん】の青年部とグレーの伴天【はんてん】の一般担ぎ衆、
総勢150名により宮入を行います。
【子ども神輿】
【町会の特徴】
東京都千代田区、秋葉原の東に広がる静かな一角。そこに、時代を超えて受け継がれてきた町の名があります。神田和泉町【かんだ いずみちょう】。そして、この地を見守り続けてきたのが神田和泉町々会です。
その名の由来は、江戸時代。 この一帯には、和泉守【いずみのかみ】と称された武士の屋敷がありました。やがてその屋敷地が町人に払い下げられ、町が生まれたのです。
江戸中期、和泉町【いずみちょう】には、表具師、鋳物師【いもじし】 、筆職人、印刷業など、手仕事に生きる人々が暮らしていました。神田の町らしく、商いと職人文化が交差し、路地には人情と活気が満ちていたといいます。
神田川にほど近いこの町は、物流にも恵まれていました。
舟運【しゅううん】と陸路が交差する場所。 和泉町は、“暮らしを支える町”として、人々の営みを支えてきました。
明治維新の後、町は再び姿を変えます。 町名が整備され、印刷所や小規模工場が建ち並ぶ近代の町工業地帯として発展。秋葉原駅の開業により、さらにこの地は東京の物流と商業の結節点【けっせつてん】となっていきました。
昭和二十年――東京大空襲。 和泉町もまた、その猛火に焼かれました。
けれども、町の人々は立ち上がり、瓦礫の中から再び、暮らしの灯をともしたのです。
戦後、復興とともに誕生したのが、神田和泉町々会【かんだ いずみちょうちょうかい】 。町の安全を守るため、世代を超えたつながりを大切にするため、この町会は、地域の“心の拠りどころ”として生まれました。
そして今。 神田和泉町々会は、神田明神の御祭礼【ごさいれい】や町内行事を通じて、江戸から続く文化と心意気を、
静かに、しかし、確かに受け継いでいます。
【神輿の特徴】
神田和泉町町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。
その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!
当町会を愛して止まない担ぎ手350〜400人で宮入を行います。
必見ポイントは社殿前【しゃでんまえ】です。
前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。
是非ご堪能ください。
【町会の特徴】
秋葉原駅から昭和通りを東へ抜けた先に、かつての町人文化を静かに語り継ぐ町があります。それが、神田佐久間町【かんだ さくまちょう】四丁目。そしてこの地を支えるのが、神田佐久間町四丁目町会です。
この町の始まりは、江戸の初め、武士の屋敷跡が町人に払い下げられ、やがてそこに町が生まれました。神田佐久間町、その四丁目は、町の南の端、江戸の喧騒【けんそう】と静寂の境目にあたる場所でした。
江戸の頃、この町には紙問屋、表具師、金物商、さまざまな職人と商人たちが暮らしていました。彼らは“手”で働き、“心”で町を守る、江戸の町人気質を体現する存在でした。
この佐久間町には、“い組”と呼ばれる町火消しもありました。火災の多い江戸の町では、火消しこそが町の誇り、法被を羽織り、纏【まとい】を掲げて駆ける姿は、粋な町の象徴だったのです。
明治時代。、鉄道が開通し、秋葉原駅が開業すると、佐久間町は物流の要所として大きく変貌していきます。町は“神田佐久間町一丁目”から“四丁目”へと細かく区分され、特に四丁目は、倉庫や小売業、工場の並ぶ“働く町”として生き続けました。
昭和20年、東京大空襲、町は焼け、歴史ある建物も失われました。けれども、町の人々は力を合わせて立ち上がり、戦後の復興とともに、新たな町を築いていきます。
やがて秋葉原は、“電気の街”として世界に知られる存在に。佐久間町四丁目もその一角に組み込まれ、中小の電気店や飲食店が軒を連ねる、新たな商いの町へと姿を変えていきました。
この町は、江戸の職人たちの誇りと、明治の技術革新、そして現代の暮らしが、幾重にも折り重なっています。
【神輿の特徴】
神田佐久間町四丁目町会の神輿は昭和32年に浅子 周慶【あさこ しゅうけい】により作られました。
キレイな彫刻、豪快な担ぎっぷりに是非ご注目ください。
【町会の特徴】
東京都千代田区、秋葉原駅から少し東に歩いたこの地に、ひときわ重みのある名前を持つ町会があります。神田佐久二平河町会【かんだ さくに ひらかわ ちょうかい】 。
それは、江戸から続くふたつの町の記憶を受け継いだ、歴史の継ぎ目に立つ町会です。
“佐久二”は、“神田佐久間町二丁目”の略で、かつて武家地であったこの一帯も、江戸初期にはそれが町人地【ちょうにんち】へと変わり、紙問屋や表具師【ひょうぐし】 、職人たちが軒を連ねる、にぎやかな町となりました。
町の誇りは、“火事と喧嘩は江戸の華”と言われたように、町火消しにも表れていました。佐久間町にも『町火消【まちひけし】 “い組”』の詰所があり、いざという時には、職人たちが一斉に火事場へ駆けつける姿が見られました。
そしてもうひとつの名、“平河町”、その名の由来は、江戸の外堀に沿って流れた“平川”とも言われています。このあたりは、武士と町人が混ざり合う独特な空気を持っていました 。
時代とともに移り変わったこの名が、神田の一角に静かに息づいています。
明治時代になると、町名は整理され、鉄道が開通し、秋葉原駅の開業とともに、この地域は新たな都市へと生まれ変わります。商人の町から、物流と技術の最前線へ――。 時代は変わり、町の姿も大きく変貌していきました。
そんな中で、神田佐久二平河町会かんだ さくに ひらかわ ちょうかい】 は、変わりゆく時代のなかで、地域を守る存在として生まれました。防災や見守り、祭礼への参加――人と町のつながりを絶やさぬよう、今も活動を続けています。
【神輿の特徴】
神田佐久二平河町会の神輿は昭和27年に名工、後藤 直光【ごとう なおみつ】により製作され、
一本彫りの繊細な彫刻が特徴であり、6年前に修復されました。是非ご注目ください。
【町会の特徴】
東神田三丁目【ひがしかんだ さんちょうめ】 、今ではオフィスと住宅が立ち並ぶこの町も、かつては江戸の下町として、
商いと職人の技にあふれていました。
“神田”とは、江戸の町人文化を象徴する地。東神田の一帯は、商人や職人、町人たちが暮らす“町人地【ちょうにんち】”として栄え、物流の拠点、
日本橋や浅草橋と結ばれた江戸の商業の交差点でもありました。
このあたりには、染物師や印刷職人、鳶【とび】 、左官【さかん】など、数多くの手仕事の匠【たくみ】たちが暮らしていました。火事に備えた町火消しも、神田の誇り。“江戸っ子気質”が息づく場所でもあったのです。
明治維新ののち、“町名改正”により新たに名づけられた『東神田』。神田地域の東側、隅田川にほど近いこの地は、鉄道の発展とともに、東京の物流と工業の中心地として、再びその姿を変えていきます。
町には印刷や金物、革細工といった新たな職人たちが集まり、暮らしと産業が調和した“まち”が育っていきました。
しかし、昭和20年――東京大空襲。多くを焼失した町は、再び一からの出発を強いられます。それでも、人々は手を取り合い、復興を進めました。
そして現代。『東神田三丁目町会』は、地域の絆を支える住民自治の柱として、防災、防犯、美化、子育て支援、そしてお祭りと、人と人とのつながりを大切に育み続けています。
神田の誇りは、今も脈々と東神田三丁目の町会に受け継がれています。
【神輿の特徴】
光り輝く神輿に御注目下さい。
東神田三丁目町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工により造られました。
総勢300名での宮入となります。
【町会の特徴】
東京・秋葉原の東側、昭和通りにほど近い一角。そこに、ひときわ歴史を感じさせる名が残されています。神田佐久間町三丁目【かんだ さくまちょう さんちょうめ】 、この町には、時代のうねりの中で、江戸から続く人々の暮らしと誇りが、今も静かに息づいています。
町名は1744年(延享【えんきょう】元年)来、日本橋本材木町【にほんばし ざいもくほんちょう】の材木商人であった
佐久間平八【さくま へいはち】が移住したことに由来します。
江戸の商いと職人文化の粋が詰まった町。佐久間町は、浅草橋や日本橋と連携し、江戸の物流と経済を支える要所でもありました。
やがて時は流れ、明治。鉄道が開通し、秋葉原駅が誕生しました。佐久間町三丁目はその東側、駅に隣接する町として物流と商業の最前線となっていきます。
1923年(大正12年)の関東大震災時、住民総出のバケツリレーで延焼【えんしょう】を防ぎ町を守った伝説は有名です。
昭和に入り、戦争と空襲によって町は焼け野原に。しかし、戦後の復興とともに、再び人々の暮らしが息を吹き返します。佐久間町三丁目には、商店、オフィス、住宅が立ち並び、多様な顔をもつ町として再生されました。
高度経済成長期、秋葉原は“電気の街”として世界に名を知られるようになり、佐久間町もその一角を担い、電機部品やパソコンパーツ、さまざまな商いが集まりました。
町が変わっても、守り続けるものがある。 人と人との絆。 地域の心。神田佐久間町三丁目は、江戸の面影を未来へつなぐ、静かな語り部なのです。
【神輿の特徴】
神田佐久間町三丁目町会の神輿は、昭和32年に後藤 直光【ごとう なおみつ】
の手により生み落とされました。
豪快で、元気いっぱいの担ぎっぷり、ご注目ください!
【子ども神輿】
【町会の特徴】
「鍛冶町【かじちょう】 」という名称は、江戸時代、この地域に鍛冶職人が多く住んでいたことに由来します。
特に、幕府の鍛冶方棟梁【かじがた とうりょう】であった高井伊織【たかい いおり】が屋敷を構えていたことから、
多くの鍛冶職人が集まり、町が形成されました。
高井家は、相模【さがみ】 、武蔵【むさし】 、安房【あわ】 、上総【かずさ】、下総【しもうさ】 、常陸【ひたち】 、
上野【こうずけ】、下野【しもつけ】の「関八州【かんはっしゅう】 」の鍛冶頭を務めており、その影響力は大きかったとされています。
ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀【なぎなた】といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。
昭和8年の区画整理で、黒門【くろもん】町、上白壁【かみしらかべ】町、下白壁【しもしらかべ】町、
鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。
昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となりました。
近代科学の大先覚者、平賀源内【ひらが げんない】が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、
生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。
この町会には、純金地金【じゅんきん じきん】の精製や貴金属工業用品の製造などで高い技術を誇る
徳力【とくりき】本店があります。
その確かな技術、伝統と信頼で「金は神田の徳力【とくりき】 」と言われています。
元々は300年程前に幕府の命により金銀を改鋳【かいちゅう】し始め、今でもジュエリーや金工芸品など、
幅広い分野で貴金属製品を取り扱っています。
町会の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
鍛冶町二丁目町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、
宮大工【みやだいく】の手により作られました。
大きさは、台輪【だいわ】寸法2尺6寸です。総欅【そうけやき】作りの傑作の神輿です。
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