
【町会の特徴】
神田田代町【かんだ たしろちょう】会は、東京都千代田区外神田四丁目2番から5番を管轄する町会で、
その歴史と由来は江戸時代後期の大火とその後の町の再編に深く関わっています。
寛政5年(1793年)に湯島の無縁坂【むえんざか】から出火した大火により、神田川周辺の町が焼失し、
その一部が火除地【ひよけち】となりました。
翌年、被災した住民たちは、御成道【おなりみち】沿いにあった旗本・永井伊織【ながいいおり】の屋敷跡を
代地として与えられ、移転してきました。
明治5年(1872年)、この地域は俗に「神田代地(かんだだいち)」とも称されていたことから、
それを略して「田代町」【たしろちょう】と名付けられました。
明治五年、“田代町”は正式な町名となり、町の守り神として祀られたのが、花房稲荷【はなぶさ いなり】神社。この小さな社は、江戸から昭和まで、人々の願いとともに町の片隅にたたずみ続けました。
昭和二十年、戦火によって社殿は焼失しましたが、戦後再建され、今も四月の祭礼には、心づくしの神事が執り行われています。
昭和39年(1964年)に住居表示の実施により町名は“外神田四丁目”となりますが、町会の名は変わらず、
“神田田代町【かんだ たしろちょう】会”として地域を支え続けてきました。
神田田代町【かんだ たしろちょう】会。それは、火災から生まれ、祈りとともに育ち、時代が変わっても、人とまちの心を結ぶ、静かであたたかな“まちの灯”なのです。
【神輿の特徴】
神田田代町【たしろちょう】会の神輿は、昭和35年(1960年)に制作され、
他の神輿に比べて引き締まった作りが特徴とされています。
神田祭などの地域行事で活躍し、地域の連帯感を深める役割を果たしています。
【町会の特徴】
神田同朋町【かんだどうぼうちょう】は、かつて現在の東京都千代田区外神田二丁目および六丁目の一部に位置していた町名です。
江戸時代初期、この地域は寺社地【じしゃち】として多くの寺院が立ち並んでいました。
しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火【めいれきのたいか】により神田一帯が焼失。
翌年、幕府は江戸の再開発を行い、神田神社の裏門周辺を御坊主衆【おぼうずしゅう】の屋敷地に指定しました。
御坊主衆【おぼうずしゅう】とは、江戸城内で将軍や大名など身分の高い武士に仕えた法体【ほったい】姿の案内世話役で、
同朋衆【どうぼうしゅう】とも呼ばれていました。
「同朋【どうぼう】」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務【ざつむ】、茶事【さじ】を務めた僧体【そうたい】の小史【しょうし】のことを言います。
江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣【こうい】・刀剣【とうけん】の上げ下げ・
茶弁当【ちゃべんとう】の世話をし、将軍外出の際には、長刀【なぎなた】を持って従っていました。
彼らの屋敷地があったことから、この地域は同朋町【どうぼうちょう】と名付けられました。
さらに寛文【かんぶん】十年(1670年)には、町内に商人や職人が住む町屋も生まれ、町としての機能が発展していきました。
また、「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴【きょくてい ばきん】、本名、滝沢馬琴は、文政七年(1824)、
九段中坂【なかざか】からこの同朋町【どうぼうちょう】に移り、天保七年(1836)までこの町の住人でした。
明治2年(1869年)に神田同朋町【かんだどうぼうちょう】と改称され、1964年(昭和39年)の住居表示実施に伴い、
神田同朋町【かんだどうぼうちょう】は外神田二丁目および外神田六丁目へ編入されました。
【神輿の特徴】
神田同朋町会【かんだどうぼうちょう】の神輿は平成8年3月に新調しました。
宮本 卯之助【みやもと うのすけ】の作品です。
美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情【ふぜい】になっています。
【町会の特徴】
神田栄町【かんだ さかえちょう】は、かつて東京都千代田区外神田五丁目に位置していた町名です。
江戸時代、この地域には武家屋敷が立ち並んでおり、幕末のころの絵図には、
豊前小倉藩【ぶぜん こくらはん】小笠原家【おがさわらけ】の中屋敷【なかやしき】が存在していたことが記録されています。
この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。
明治2年(1869)12月、神田相生町【あいおいちょう】から出た火事によって、
現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。
そこで明治新政府は、神田竹町【たけまち】 、神田平河町 【ひらかわちょう】 、神田松永町【まつながちょう】などに、
防火のための火除地【ひよけち】を設置し、鎮火神社【ちんかじんじゃ】として秋葉神社【あきばじんじゃ】を建立しました。
それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町【かんだ さかえちょう】となりました。
「栄」という名前は、新たに繁栄するように、との願いから付けられたと言います。
神田栄町【かんだ さかえちょう】は明治期の火災後の再編により誕生し、
町の繁栄を願う住民の思いが込められた町名を持つ地域でした。
明治44年(1911)、町名は神田を取り、栄町と改称しますが、昭和22年に、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。
そして昭和39年、住居表示の実施で神田亀住町【かんだ かめすみちょう】や神田元佐久間町【かんだ もとさくまちょう】
とともに、現在の外神田五丁目となりました。
【神輿の特徴】
外神田五丁目栄町会の神輿は昭和54年製作のものです。
皆さまの心に強く迫る宮入りをします。
【町会の特徴】
神臺会【じんだいかい】は神田神社の男坂下【おとこざかした】、外神田二丁目に位置します。
昭和39年に町名変更が実施されるまでは「御台所町」【おだいどころまち】と呼ばれていました。
江戸時代、現在の外神田二丁目周辺は寺院が立ち並ぶ地域でした。
しかし、1657年の明暦の大火後、幕府の火災対策政策により、これらの寺院跡地に武家屋敷が再建されました。
特に、城内の御台所御賄方【おだいどころおまかないかた】の武家屋敷が設けられ、
このことから「御台所町」【おだいどころまち】という地名が生まれたと考えられています。
寛文【かんぶん】12年(1672年)には、武家屋敷内に町屋が形成され、商人や職人が住む町として発展していきました。
文政7年(1824年)に編纂【へんさい】された『江戸買物独案内』【えどかいものひとりあんない】には、
この地域に足袋屋、呉服屋、小間物屋が存在していたことが記されています。
「神臺会」【じんだいかい】の名称は明治27年(1894)、日清戦争の年に町名として始まりました。
日露戦争戦勝記念の「石橋」山車【だし】には提灯【ちょうちん】が飾られており、
上の提灯の文字は「神臺会」【じんだいかい】、下の提灯の文字は「臺所町」【だいどころまち】となっています。
さらに、戦後すぐの昭和21年製の太鼓には「神臺会」の文字が彫られており、
現在もこの名称を町会名として使用しています。
神臺会は、現在も神田明神のお膝元としての誇りを強く持っている町会です。
【神輿の特徴】
外神田連合の一番神輿です。
宮入後は外神田各町会の神酒所を神輿を担いで訪問し、交流を深めます。
その後、13:00過ぎには秋葉原駅前中央通り「おまつり広場」へと場所を移し、
外神田連合と江戸神社千貫【せんがん】神輿と協力して、神輿天国を盛り上げていきます。
明日は神輿宮入の日です。
「Internet TV 神田祭.ch」では8:30頃より、神輿宮入の様子を完全生中継いたします!!
臨場感あふれる、宮入をお伝えして行きます!お楽しみください。
ゲストに稲川淳二さん!!
お見逃しなく!!
【神輿宮入】
https://t.co/YlBQYyfuLm
ナビゲーター、ゲストへの応援メッセージ、コメントはインターネットTV神田祭.ch
投稿用メールアドレス
mail@kandamatsuri.ch
まで
Xはハッシュタグ「#令和7年神田祭」をつけてツイートをお願いいたします。
【町会の特徴】
水辺に寄り添い、時代を超えて生きてきたまち。
そして、地域の絆を受け継ぐのが、浜町二丁目西部町会(はまちょうにちょうめ せいぶちょうかい)です。
この地は、延宝年間(えんぽう ねんかん)、1673年〜81年の絵図を見ると、そのほとんどは、稲葉丹後守(いなば たんごのかみ)の屋敷地(やしきち)と描かれ、江戸時代静けさと威厳に包まれた武家の町でした。
西側には“浜町川”が流れ、水運の要として、町人たちの暮らしと商いも息づいていました 。
やがて、明治の世が訪れ、町の姿は大きく変わっていきます。
武家の屋敷跡は浜町公園へと生まれ変わり、庶民の憩いの場となりました。
明治から昭和初期にかけては料亭街として栄えました。
当時は人力車が走り、芸者や三味線の師匠など、文化芸術に精通した人々が多く住んでいたとされています。
しかし、そんな穏やかなまちに、ひとつの“世の注目”が集まる事件が起きたのも、明治20年に浜町二丁目で起こった事件明治一代女(めいじいちだいおんな)」として芝居や映画にも描かれた「花井お梅による峯吉(みねきち)殺し」です。
浜町の芸者であったお梅は、年下の愛人・峯吉との関係に苦しみ、ついにある夜、彼を手にかけてしまいます。
その一件は世間を揺るがせ、新聞は連日、彼女の美貌と哀しみを報じました 。
約40年前から街のニーズが変化し、料亭が次第にマンションに変わっていきました。
浜町二丁目西部町会。 それは、大名の静寂、芸者の華やぎ、そして時に哀しみをも抱えながら歩んできた町の歴史を、
今日に語り継ぐ、“まちの記憶の番人”なのです。
【神輿の特徴】
浜町二丁目西部町会 (はまちょうにちょうめせいぶちょうかい) の神輿は、 1尺8寸とさして大きくはありません。
しかし、鋳物(いもの)でしつらえられた魅力的な飾りとあでやかな装いは、宵(よい)灯りの中で幻想的な雰囲気に包まれた神田明神の境内ではひとまわり大きく、ひときわ華やかにみえていることでしょう。
威勢のいい担ぎ手たちを御幣(ごへい)で導くのは、前回木頭 (きがしら) を務めた鳥井龍吾(とりい・りゅうご)さんです。
そして神輿を正面に見て右側の高張(たかはり)提灯で行く手を照らすのは奥様の鳥井由美 (とりい ・ ゆみ)さん。
さらにその後ろ、凛とした姿の手古舞はお嬢さんの鳥井眞美(とりい・まみ)さんが務めます。
神田祭の伝統を神輿とともに紡ぎながら、 家族の歴史もまた一歩一歩、 重ねられていきます。
【町会の特徴】
人形町二丁目三之部【さんのぶ】町会です。 この一帯は「元吉原【もとよしわら】」の遊郭のあったところです。
かつて江戸の遊里【ゆうり】は各地に分散していましたが、この地は元和(げんわ)3年、1617年、幕府の公許【こうきょ】を得て、葭【よし】の生い茂る未開の沼地を開拓し、遊郭元吉原【もとよしわら】が設けられました。
“吉原”とは、遊女や芸者が置かれ、文芸や社交が行き交う、いわば江戸の“もう一つの顔”。
遊女たちは和歌や舞、三味線をたしなみ、訪れる人々は、その“もてなしと芸”を通じて、江戸の美意識にふれました。
こうした文化が根を下ろし、後に芝居町【しばいまち】 ・人形町の土壌となっていきます。
しかし、1656年(明暦2年)、幕府は吉原遊郭の移転を命じ、遊廓は浅草の吉原(新吉原)へと移転しますが、
この地にはその文化的な余韻が残され、人形芝居や浄瑠璃【じょうるり】 、細工人形といった“芸のちから”が町を彩るようになります。
元吉原があった日本橋人形町周辺には、当時の名残を示す地名や史跡が点在しています。
例えば、末廣【すえひろ】神社は元吉原の鎮守【ちんじゅ】として建立され、現在も地域の人々に親しまれています。
三之部【さんのぶ】という呼び名は、江戸の町を細かく分けた防災・自治の単位でした。 人形町二丁目のこの一角では、芝居と商いが息づく町を、火や水、盗難から守るため、人々が日々力を合わせて暮らしていました。
明治に入り、芝居小屋は姿を消していきますが、町には印刷所や筆記具店、和菓子屋が並び、 “古き良き江戸の記憶を宿す近代都市”として歩み始めました。
【町会の特徴】
ここは、東京都中央区浜町一丁目。 水と歴史が交差する町。 その足元を見守り続けてきたのが浜町一丁目町会です。
江戸時代、この地には、
松平越中守(まつだいら えっちゅうのかみ)をはじめとする有力大名の下屋敷が連なり、武家地としての格式を湛(たた)えていました。
浜町一丁目町会は、江戸時代、この地は武家地と町地(まちじ)の入り交じった町でした。
かなり後までも武家地として残っていた所があり、町地では刀・脇差(わきざし)を売る店が多かったといいます。
この地域を流れていた浜町川(はまちょうがわ)は、江戸時代初期に開削(かいさく)され、
神田川から日本橋浜町までを結ぶ運河として利用されていました。
浜町河岸(はまちょうがし)は、隅田川に面した川の船着場(かわし)。
早朝には野菜や魚を積んだ舟がつき、問屋や仲買人が活気よく声を張り上げる。 町は、まさに“水のある暮らし”そのものでした。
また、花柳界(かりゅうかい)的色彩のある町で、明治に入り、旧武家地はお屋敷町おやしきまち)として再生されます。 そして、その屋敷や料亭を彩ったのが、芸者衆たちの華やかな文化でした。 三味線の音が聞こえるたび、浜町は“粋な大人のまち”として、ひときわ輝きを放っていたのです。
今日では、一部花柳界(かりゅうかい)の名残を残し、多くはマンションへと様変わりしています。
川とともに栄え、芸とともにきらめいた町。 その記憶と誇りを今に伝えるのが、浜町一丁目町会。
それは、“江戸の粋”と“まちの力”をつなぐ、静かな柱です。
【町会の特徴】
ここは中央区浜町三丁目。 江戸の香りとともに生きる町。
その東の一角を見守るのが、浜三東部町会(はまさん とうぶ ちょうかい)です。
江戸時代、この一帯は、松平越中守(まつだいら えっちゅうのかみ)や柳沢美濃守(やなぎさわ みののかみ)などの大名の下屋敷が並ぶ、由緒ある武家地でした。
町の西を流れていた浜町川や堀留川は、江戸の物流と水辺の暮らしを支える水路としてにぎわっていました。
近くには、大川、現在の隅田川があり、長さ97mの新大橋が架けられました。
そんな町の橋詰(はしずめ)、つまり橋のたもとに、かつて江戸っ子たちの心をつかんだ名物団子屋がありました。
名を馳せたのは、“五つざしの つけ焼き団子”。
この団子は、五つ玉が一本に刺され、表面をこんがりと炙り、甘辛いタレを塗って二度三度と焼き上げる。
江戸前の粋と手間が詰まった味でした。
香ばしい醤油の香りに誘われて、芝居帰りの町人や旅人が立ち寄り、串を片手に一服したといいます。
明治に入り、町は再編され、現在の“浜町三丁目”が誕生します。
なかでも東側は、職人や商店、小さな町工場が集まる、人の営みが色濃く残る地域となりました。
明治六年には、大名屋敷跡に“浜町公園”が整備され、防災と安らぎの場として、地域の“まちの中心”となっていきます。
いま、町会は、防災・見守り・清掃・交流と、暮らしのすべてを包む存在として活動を続けています。 祭りの日には、かつての団子屋の記憶を忍ぶように、笑顔と香ばしい香りが町に広がります。
【町会の特徴】
蛎一町会自衛会【かきいち ちょうかい じえいかい】は、東京都中央区日本橋蛎殻町【かきがらちょう】
一丁目29番から31番、および38番・39番を管轄する町会です。
江戸開府の頃は江戸湾、現在の東京湾に面した隅田川の河口、海浜の地で、その後の埋め立てで陸地化し、
浜町【はまちょう】と呼ばれていた地域です。
江戸湾の干潟だったこの地には、牡蠣の殻が打ち寄せられ、白く地面を覆っていたといいます。
町の名“蛎殻町”は、そんな自然の風景から生まれました。
江戸初期の頃には、船で江戸に入る物品を収納する蔵屋敷地【くらやしきち】でした。
やがてこの場所は埋め立てられ、町人の暮らす場所へと生まれ変わります。
海産物問屋や船問屋、倉庫商人たちが集い、江戸の物流と食を支える町として栄えました。
この町の背後には、江戸の水運に支えられた力強い経済の流れがありました。
日々の商いと暮らしを守るため、人と人とが支え合う“町の力”が、ここには根づいていたのです。
明治時代になると、町は正式に“蛎殻町一丁目”と名付けられ、近くには水天宮が移り、町は門前町としてもにぎわいを見せました。
蛎一町会自衛会(かきいち ちょうかい じえいかい)は、特に防災活動に力を入れている町会として知られています。
定期的な防災訓練や講習会を開催し、地域の防災意識の向上に努めています。
また、町内の清掃活動や防犯パトロールなども積極的に行い、住みよい環境づくりに取り組んでいます。
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