神田中央連合 小川町連合

2025年05月11日 12:46

【町会の特徴】
小川町【おがわまち】は小川町北部一丁目町会【おがわまち ほくぶ1ちょうめ ちょうかい】 、
小川町北部二丁目町会【おがわまち ほくぶ2ちょうめ ちょうかい】、小川町北三町会【おがわまち きた3 ちょうかい】
小川町三丁目西町会【おがわまち 3ちょうめ にしちょうかい】の4つの町会の連合となっています。

江戸時代初期、この地域には将軍の鷹狩に使用する鷹を飼育する鷹匠【たかじょう】が住んでいたことから、
「元鷹匠町【もとたかじょうまち】」と呼ばれていました。
​しかし、元禄6年(1693年)に五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を施行し、鷹狩が禁止されたため、
この地域は神田の西半分を占める広大な地域を指す俗称として「小川町【おがわまち】」と呼ばれていました。
小川町【おがわまち】の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、
「小川の清水【しみず】」と呼ばれる池があったからとも言われています。

明治時代、町内には東京物理学校(現在の東京理科大学の前身)をはじめ、教育機関や医療施設が設立され、
学術的な雰囲気が漂っていました。
また、西洋料理店やビリヤード場、小川町【おがわまち】警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。
町内で生まれ過ごした昭和期の小説家、永井 龍男【ながい たつお】を輩出した街でもあります。

昭和30年代頃からは学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が数多く出店し、スポーツ店街としても賑わいました。

町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。

【神輿の特徴】
当初、小川町には、子ども神輿と中神輿【ちゅうみこし】、そして太鼓の山車があり、
子どもの数も多く、とても活気に満ちていました。
やがて、子ども達が大きくなってくると大きな神輿が欲しくなり、有志が集まり趣意書【しゅいしょ】を作り、
毎月の定額積み立てを続け、昭和61年3月に2尺5寸(約75.8cm)の大神輿を調製しました。
それ以来、祭の度に町会員やその知人が多数集まり、賑やかに楽しくお神輿を担いでいます。

稲川淳二さんへのご質問やご声援をお待ちしております。

2025年05月11日 12:42

インターネットTV神田祭ch Youtube生配信では、現在神輿宮入の様子をお届けしていますが、15時と17時より、ゲストの稲川淳二さんを迎え、神輿宮入の様子をお届けいたします。

稲川淳二さんにご質問など募集しております。
mail@kandamaturi.ch
よりお待ちしております。

神田中央連合 神田神保町一丁目町会

2025年05月11日 12:38

【町会の特徴】
江戸時代、この界隈【かいわい】には武家屋敷【ぶけやしき】が立ち並んでいました。
 町名の由来は、元禄【げんろく】年間(1688〜1704)のころ、旗本【はたもと】の神保 長治【じんぼう ながはる】が
広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路【こうじ】が「神保小路【じんぼうこうじ】 」と呼ばれるようになったためと言われています。

明治5年(1872年)、地租改正などの近代化政策に伴い、表神保町、裏神保町などの町名が正式に制定されました。
​これにより、町域の再編が進められ、地域の行政区画が整備されました。
大正11年(1922年)、裏神保町が通神保町【とおりじんぼちょう】と改称されました。
​この時期、関東大震災(1923年)の影響もあり、都市計画や再開発が進行し、町の景観や機能が大きく変化しました。
昭和23年(1948年)には、神田区と麹町区が合併して千代田区が誕生し、現在の神田神保町一丁目となりました。

神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に古書店街で有名な「神田すずらん通り【どおり】」が走っています。
この通りの名前は街路灯【がいろとう】がスズラン式に変わったことから名付けられました。
街路灯【がいろとう】が変わった理由は、明治20年頃、この辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町【かいぶつよこちょう】」と呼ばれたくらいに、人通りのない道であり、暗く恐い道を少しでも明るくしようとしたからだと言われています。
現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
 
神保町は神田すずらん通りに代表されるように、『本の街』とも言われています。

町会の該当区域は、神保町一丁目1〜41番地までの奇数番地、101・103・105番地となっています。

【神輿の特徴】
平成15年江戸開府400年を記念し、浅草、宮本卯之助【うのすけ】商店より新調しました。
台座【だいざ】2尺3寸(約70cm) 、重量330キロ、担ぎ手200名で宮入します。

神田中央連合 神田猿楽町町会

2025年05月11日 12:27

【町会の特徴】
猿楽町【さるがくちょう】は古来、芸術文化に関係の深い町です。

今でいう「能楽【のうがく】 」は、江戸時代には「猿楽【さるがく】 」として、室町時代以降 武士達に親しまれていました。
「猿楽【さるがく】 」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。
猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世座【かんぜざ】家元、観世太夫【かんぜだゆう】や、
一座の人々の屋敷がこの一帯にあったことから「猿楽町【さるがくちょう】 」という町名が生まれたと言われています。

他にも、文学では、夏目漱石が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華【きんか】小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。また、明治18年頃には、町内に下宿し、一橋にあった東京大学予備門予科に通学したということです。
芥川龍之介も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。
 
錦華【きんか】通りに接する町内中程の角地には、元交番(町会詰所【ちょうかいつめしょ】 )の古い小さな建物があり、
映画やテレビドラマなどの「交番」として活用されています。

猿楽町と駿河台【するがだい】の間に、男坂・女坂と呼ばれる2つの階段があります。
いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は73段、女坂は82段を数えます。
どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、
男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。
そのため、73段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。

町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目で、平成30年1月1日から町名に神田が付き、神田猿楽町になります。

【神輿の特徴】
町会創立60年、神田神社 御遷座【ごせんざ】 400年を機に全額寄付により御神輿を新調しました。
屋根唐破風神社型【やねからはふ じんじゃがた】で台輪寸法2尺3寸(約70cm) 。
堂羽目【どうばめ】彫刻には、町会の象徴として神田猿楽町の名前の由来にもなる猿楽「翁(おきな)」が彫刻されています。
正月や祝賀等に舞われる縁起物です。 松竹梅に囲まれた中央にシテが舞う様子が表現されています。
その足下【そっか】には神田川も流れます。もう片方には、「天の岩戸」。
岩中に閉じこもった天照大御神【あまてらすおおみかみ】を八百万の神々が宴を催し【もよおし】 、
覗き込んだ天照【あまてらす】を外に出そうとしている様子を彫刻。
上長押【かみなげし】には十二支。狛犬【こまいぬ】は阿吽【あうん】獅子で、
獅子が持つ鞠【まり】の中には動く玉を残しながらの彫刻です。
平成27年5月3日、町会に引き渡され、神社で清めのお祓い【おはらい】を受けました。

岩本町・東神田地区連合 東神田豊島町会

2025年05月11日 12:07

【町会の特徴】
元禄16年(1703年)の地震による火災で、湯島一丁目から三丁目(現在の文京区湯島一丁目周辺)の町屋が被災しました。
​翌年、被災者の新たな居住地として、もともと武家屋敷であった現在の東神田地域が割り当てられ、新たに「豊島町」が誕生しました。

​町名の由来については明確ではありませんが、町奉行が「この一帯が属している豊島郡には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という町名があってもいいだろう」として名付けたと伝えられています。

江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁【びくに よこちょう】」や、髪油【かみ あぶら】として
美男葛【びなん かずら】の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁【かつら よこちょう】」と呼ばれた通りもありました。

そのほか、銘茶屋【めいちゃや】、菓子屋、水油仲買【みずあぶら なかがい】など、多様な商店が立ち並び、
商業の中心地として栄えていました。

明治になると、旅館、砂糖商【さとうしょう】などが集まり、さらに賑わいを見せました。
​これらの商業活動が地域の発展に寄与し、その活気は現在の町会活動にも受け継がれています。

当町会の該当区域は、東神田一丁目6〜11番地、東神田二丁目1〜7番地、岩本町三丁目6番地8〜13号、14号の一部、
11番1・2・3号の一部となっています。

【神輿の特徴】
当町会の神輿は浅子 周慶【あさこ しゅうけい】によって造られました。
台座【だいざ】は、2尺9寸(約87.9cm)となっています。
濃緑色【のうりょくしょく】加工を施した渋めの鳳凰に特徴があります。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。

岩本町・東神田地区連合 東神田町会

2025年05月11日 11:58

【町会の特徴】
江戸時代、この地域には、橋本町、江川町、富松町【とみまつちょう】、久右衛門町【きゅうえもんちょう】などの町が存在していました。
1700年代初頭、伊豆韮山(いずにらやま)の代官、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)屋敷移転後に江川町が起立し、
享保2年(1718年)の火災後、外神田から富松町【とみまつちょう】が、
また、享保10年(1725年)久右衛門町【きゅうえもんちょう】がそれぞれ元地から代地としてこの地に至りました。
関東大震災(1923年)の復興計画に伴い、町名の再編が行われ、昭和9年(1934年)に橋本町、江川町、富松町【とみまつちょう】、
久右衛門町【きゅうえもんちょう】が合併して「東神田」となりました。​
さらに、昭和13年(1938年)には東神田町会が成立しました。
​昭和40年(1965年)の住居表示の実施により、東神田は東神田一丁目と東神田二丁目に再編されました。 ​

江戸時代中期から、神田川沿いの「柳原土手【やなぎはらどて】 」には古着を扱う露店が多く集まり、古着市場として栄えました。
​明治以降もこの地域は古着市場として続き、第一次世界大戦後には和装から洋装への移行に伴い、
古着から新品の安価な既製服を扱うようになりました。​現在でも、岩本町や東神田周辺は繊維問屋街として知られています。

戦後は繊維関連の現金問屋やその関連事業が集まり、町は大きく発展していきました。
時代は流れ、問屋から商社へと転業して行く中で、この町にオフィスビルやマンションが誕生し、新しい住人を迎えました。
昔から東神田に住んでいた人たちと、新しくこの町へやってきた人々。
東神田町会は今年で創立87周年を迎えます。
この神田祭を含めて、一緒に新しい「東神田」を作っていきたいと考えています。
当町会の該当区域は、東神田1丁目、1〜5、12〜17と東神田2丁目8〜10となっております。

【神輿の特徴】
東神田町会の神輿ですが、まずは、堂部の極彩色【ごくさいしき】注目してください。
堂嵌【どうはめ】は唐獅子に牡丹華【ぼたんばな】で「獅子の子落し」を表現しています。
牡丹華も背景の紫雲【しうん】も、繧繝彩色【うんげんさいしき】を施し、立体感を出しています。
華弁や葉端【はばし】に金彩【きんさい】を施す細やかさもあります。
欄間【らんま】には菊花【きっか】をあしらうなど、全部で15種の華を配します!
屋根に羽ばたく鳳【おおとり】は、平等院鳳凰堂の屋根飾で、1万円の裏のデザインと同じものです。
鳳の足下に古風な桝形露盤【ますがたろばん】、側面に東神田と陽刻しています。
昭和29年に浅子周慶によって作られました。台輪【だいわ】寸法2尺7寸の東神田型です!

岩本町・東神田地区連合 岩本町一丁目町会

2025年05月11日 11:46

【町会の特徴】
この地域は、かつて「雁淵【がんぶち】」や「笹原【ささはら】」と呼ばれる沼地でした。
享保年間【きょうほうねんかん】1716年〜1736年以前、一時期は不老山無量寺寿松院【ふろうざん むりょうじ じゅしょういん】が
存在しましたが、間もなく元鳥越【もととりごえ】に移転し、その跡地が松平太郎八【まつだいら たろうはち】の武家地となりました。
その後、町屋として開発され、「岩本町【いわもとちょう】」が成立しました。

​町名の由来については諸説あり、駿河台【するがだい】の高台から流れる神田川が砂や小石混じりの須田村【すだむら】を過ぎて、
さらに低い当地では岩場ができており、「岩場」が「岩本」になったという説や、当地が「雁淵【がんぶち】」と呼ばれていたため、「雁【がん】」を思わせる岩淵【いわぶち】があり、その「岩の根元」という意味で付けられた説などがあります。

江戸時代、この地域は材木商や古着商が集積し、商業地として発展しました。​
特に、岩本町一帯(三丁目付近)は大規模な古着市場があり、多くの古着商が軒を連ねていました。​
また、繊維業関連の企業や商店も多く存在し、現在でもその名残が見られます。

明治以降、岩本町は商業地域としての性格を強め、オフィスビルや商店が立ち並ぶ地域となりました。
​1965年7月1日の住居表示実施により、神田岩本町の一部のほか、神田大和町、神田松枝町、神田元岩井町の全部、神田豊島町、
神田東松下町の各一部が合併し、現在の岩本町一丁目から三丁目が新設されました。
​現在では、オフィスビルや商店が多く立ち並ぶ商業地域として発展を続けています。

町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。

【神輿の特徴】
岩本町一丁目町会の神輿は昭和31年、市川行徳【いちかわぎょうとく】の神輿師【みこしし】、
十四代 浅子 周慶【あさこ しゅうけい】により造られました。
台輪【だいわ】寸法2尺3寸の大神輿で、黒漆塗り【くろうるしぬり】の屋根には
神田明神の御神紋【ごしんもん】が光ります。
約300人の担ぎ手により宮入りを行います。

岩本町・東神田地区連合 神田大和町会

2025年05月11日 11:37

【町会の特徴】
江戸時代初期、この界隈は武家屋敷が立ち並び、「元誓願寺前【もとせいがんじまえ】 」と呼ばれていました。

享保年間【きょうほうねんかん】1716年〜1736年に、竜閑橋【りゅうかんばし】、現在の内神田二丁目にあった橋の北側に位置していた
大和町【やまとちょう】の住民が、この地に代地を与えられ移転してきました。
​これにより、この地域は「大和町代地【やまとちょうだいち】」とと呼ばれるようになりました。

幕末のころには、大和町代地【やまとちょうだいち】から隣接するの東竜閑町【ひがし りゅうかん ちょう】にかけて、
数百軒の駄菓子問屋【だがしとんや】が軒【のき】をつらね、ずいぶん賑わっていたと言われています。

またここには、蝋燭【ろうそく】や、べっこう細工、箪笥【たんす】などをつくる職人も多く住んでいました。

明治2年(1869)、大和町代地【やまとちょうだいち】は合併して、神田大和町【かんだやまとちょう】となりました。
明治44年(1911)に町名は大和町【やまとちょう】に変わりますが、昭和22年、神田区と麹町【こうじまち】区が合併し
千代田区になると、ふたたび神田大和町【やまとちょうだいち】に戻ります。

そして昭和40年、住居表示の実施により周辺の町の一部と合併して
岩本町二丁目【いわもとちょうにちょうめ】になりました。

町会の該当区域は、岩本町二丁目13〜17番地、19番地となっています。

【神輿の特徴】
神田大和町会の神輿は、昭和13年に浅草、宮本 重義【みやもと しげよし】により作られました。
台座2尺、唐破風屋根【からはふやね】、金梨地塗り【きんなしじぬり】、二重勾欄【にじゅうこうらん】神輿。
屋根裏以下、総白木造り【そうしらきづくり】で、塗り神輿に比べ、大変に凝った彫刻を数多く施しています。
戦災も乗り越えた神田でも数少ない貴重な神輿です。
町内一丸となって宮入れを行います。
岩井会は、神田大和町会と合同で宮入しております。
神田祭の期間中境内に展示してある桃太郎人形山車を使った宮入です。

岩本町・東神田地区連合 神田東紺町会

2025年05月11日 11:27

【町会の特徴】
​神田東紺町会【かんだとうこんこんちょうかい】が管轄する神田東紺屋町【ひがしこんやちょう】の歴史は、江戸時代に遡ります。​
この地域は、町人地【ちょうにんち】と武家地【ぶけち】が混在する特徴的なエリアでした。

このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目【かんだこんやちょうさんちょうめ】 、神田紺屋町【かんだこんやちょう】一丁目代地、
本銀町会所屋敷【ほんしろがね ちょうかいしょ やしき】 、神田佐柄木町【かんだ さえきちょう】代地、
永富町二丁目【ながとみちょう にちょうめ】代地といった町々で、
町人地【ちょうにんち】と武家地【ぶけち】が混在する特徴的なエリアでした。

紺屋町【こんやちょう】という名称は、江戸時代から明治時代にかけて、藍染【あいぞめ】職人である「紺屋【こうや】 」が多く住み、
染物業が【そめものぎょう】盛んであったことに由来します。​
特に、紺屋頭【こうやがしら】の拝領地であったことから、この名称が付けられました。

昭和22年、神田区と麹町区【こうじまちく】が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、
神田東紺屋町【かんだひがしこんやちょう】となりました。

このように、神田東紺屋町【ひがしこんやちょう】は江戸時代から続く町人地【ちょうにんち】と武家地【ぶけち】の混在する地域として発展し、明治以降の行政区画の変更を経て現在の形となりました。

当町会の該当区域は、東紺屋町【ひがしこんやちょう】及び岩本町二丁目1〜4番地となっています。

【神輿の特徴】
神田東紺町会の神輿は浅子 周慶【あさこ しゅうけい】により造られました。
大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と
担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。
そして、なんといっても青年部の ”帯【おび】”、五分田柄【ごぶたがら】東紺【とうこん】の”扇子”、
そして頭に巻いた”東紺の手拭”、等に注目して御覧下さい。

町会の仲の良さは神田一!仲の良い担ぎっぷりを是非ご覧下さい!

岩本町・東神田地区連合 神田松枝町会

2025年05月11日 11:08

【町会の特徴】
​神田松枝町会【かんだまつえだちょうかい】は、かつて存在した東京都千代田区神田松枝町を管轄していた町会です。

昭和40年代のはじめまで、この界隈【かいわい】は神田松枝町【かんだまつえだちょう】と呼ばれていました。
「松枝【まつえだ】」という町名は、江戸城の大奥に仕えていた老女中「松ヶ枝【まつがえ】 」に由来するとされています。
​彼女の功績により、この一帯の土地が屋敷地として与えられ、宝永2年(1705年)頃から町の名称として定着したと伝えられています。

神田松枝町周辺には、江戸時代まで「お玉が池【おたまがいけ】」という広大な池が存在していました。​
この池は桜の名所として知られ、当初は「桜ヶ池【さくらがいけ】」と呼ばれていましたが、茶屋の看板娘「お玉」の悲恋伝説により
「お玉が池」と呼ばれるようになりました。​
現在、その名残として「お玉稲荷【おたまいなり】 」が地域に残されています。

また、景勝地【けいしょうち】であった、お玉が池【おたまがいけ】の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていました。​
その一人である伊東玄朴【いとう げんぼく】ら蘭方医【らんぽうい】たちが尽力し、
安政5年(1858年)にのちに幕府直轄の種痘所【しゅとうじょ】となる)種痘館【しゅとうかん】を設立しました。​
このお玉が池種痘所【おたまがいけ しゅとうじょ】が、現在の東京大学医学部の出発点とされています。 ​
 
町会の該当区域は、岩本町二丁目5〜7番地、10〜12番地となっています。

【神輿の特徴】
神田松枝町会は神輿とともに、山車【だし】にも御注目下さい。
山車は唯一宮入りする羽衣【はごろも】の山車です。
昭和13年に製作された極彩色【ごくさいしき】の神輿とともに75年振りに新調された
能衣装【のういしょう】をつけ、宮入りする姿をぜひご期待下さい。
なお人形の面【おもて】も近年若き能面作家により新調された作品です。

神田中央連合 小川町連合 2025.05.11

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【町会の特徴】 ​神田東紺町会【かんだとうこんこんちょうかい】が管轄する神田東紺屋町【ひがしこんやちょう】の歴史は、江戸 ...

岩本町・東神田地区連合 神田松枝町会 2025.05.11

【町会の特徴】 ​神田松枝町会【かんだまつえだちょうかい】は、かつて存在した東京都千代田区神田松枝町を管轄していた町会で ...