
【町会の特徴】
江戸時代以前、この地域は「須田村【すだむら】 」と呼ばれる農村地帯でした。
慶長年間(1596年~1615年)に江戸の町の整備が本格化し、須田村も町人の町へと変貌しました。
しかし、古くからの地名は残され、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図【しんてん えどのず】 」には「すた町」と記されています。このことから、「須田町【すだちょう】 」の名称は、旧来の「須田村【すだむら】 」に由来していると考えられます。
江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲を指していました。
江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具【しんぐ】や仏具【ぶつぐ】を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったと言われています。
現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
明治以降、この地域には多くの繊維関連の問屋が集まりました。
このように、須田町は江戸期以来の商いの町としての伝統が現在も息づいています。
かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭【たちばなてい】」という寄席【よせ】がありました。
この寄席【よせ】は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、
書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席【よせ】の一つでした。
町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16〜34番地までの偶数番地となっています。
【神輿の特徴】
須田町一丁目南部町会の神輿の大きさは他の町会と比べると小ぶりですが、
彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。
当町内には、明和(めいわ)病院があり、病院前で神輿を練るときは
入院患者のご老人の方々をはじめ、病院スタッフにも大変喜ばれています。
【子ども神輿】
【町会の特徴】
この地域は、JR神田駅西口前の「多町【たちょう】大通り」を挟んで、その両脇から神田警察通りに至るまでのエリアに位置し、
飲食店、商店、事務所、住居などが混在する地区となっています。
当初、この地域は「田町【たまち】」と呼ばれていました。これは、もともと田んぼを埋め立ててできた町であることに由来します。
その後、青物市場が開かれ、町の繁栄を願って「多町(たちょう)」と改名されました。
多町一丁目【たちょう1ちょうめ】は江戸時代には、神田堅大工町【かんだ たてだいくちょう】と呼ばれ、大工職・左官職・屋根屋等の
職人が多く住む町であったと言われています。
また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門【まといや じろうえもん】 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋【まといや】でもありました。
町火消し【まちびけし】の旗印たる「纏【まとい】」はいずれもこの店で作ったものであり、「いろは四十七組【よんじゅうななくみ】」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたと言われています。
町会の道路下には、東京都指定史跡【しせき】である「神田下水【かんだげすい】」が埋設されています。
この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。
その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
町会の該当区域は内神田三丁目7・12〜14・17・18・22・23番地となっています。
【神輿の特徴】
多町一丁目町会の神輿は昭和30年前半の製作で、65年経過して、令和元年の宮入に合わせ大規模修繕を行いました。
彫り物は全て分解してクリーニングを実施し、鳳凰他全てのメッキをし直し、漆も全て塗り直しを行いました。
多町一丁目町会は、昔は竪大工町【たて だいくちょう】といって職人が多くすむ地域でした。
その職人の心意気が受け継がれ、神輿の大修繕を行いました。
【子ども神輿】
【町会の特徴】
この地域は、かつて「須田村【すだむら】 」と呼ばれる農村地帯でした。
江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に江戸の町の整備が進む中で、須田村も農村から町人の町へと変貌しました。
しかし、古くからの地名は残され、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図【しんてん えどのず】」には「すた町」と記されています。
また、慶長年間には、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で青物市が開かれ、これが「神田青物市場」の起源とされています。この市場は約1万5千坪(約4万9500平方メートル)に及ぶ広大なもので、須田町、多町、佐柄木町【さえぎちょう】 、
通新石町【とおりしんこくちょう】 、連雀町【れんじゃくちょう】などの町が市場の一部を形成していました。
これらの町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていたと伝えられています。
江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北【あきはばらせいほく】に、
平成2年には大田区へと移転しました。
明治以降、須田町には多くの繊維関連の問屋が集まりました。
これは、江戸時代に神田川南岸で開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考えられています。
現在でも、須田町【すだちょう】町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。
須田町【すだちょう】は江戸から続く、活気あふれる商いの伝統が今だに息づく町です。
町会の該当区域は須田町一丁目2〜14番地までの偶数番地となっています。
【神輿の特徴】
須田町中部町会【すだちょう ちゅうぶちょうかい】の神輿は元祖女神輿【おんなみこし】です。
昭和52年から女性のみの女神輿を続けてきました。
女性ならではのきらびやかな神輿担ぎをどうぞ、御覧下さい。
【町会の特徴】
町の歴史は、天正【てんしょう】 18年(1590年)に徳川家康が江戸に入府したときに始まります。
徳川家康が江戸城の築城と町づくりを開始し、城を囲む御堀(現在の日本橋川)は建築資材などを運ぶ水路として活用されました。
古い地図にも、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、水運の拠点として栄えていたことがわかります。
「鎌倉町【かまくらちょう】」の付近は江戸城の築城【ちくじょう】工事の際、資材の荷揚げ場【にあげば】となっていました。
多くの材木石材が現在の神奈川県である相模の国【さがみのくに】から運び込まれ、
鎌倉から来た材木商たちが築城【ちくじょう】に使う建築部材を取り仕切っていました。
そのため荷揚場が「鎌倉河岸【かまくらがし】」と呼ばれ、
それに隣接する町が「鎌倉町【かまくらちょう】」と名付けられたと言われています。
その足跡は、町内にある御宿稲荷神社【おやど いなりじんじゃ】に残されており、江戸最古の町の一つとされています。
御宿稲荷神社【おやど いなりじんじゃ】は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀【まつ】られている数少ない神社の一つです。
家康公がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠【ほこら】があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地【しゃち】を寄進【きしん】されたため、世に御宿【おやど】稲荷神社の大神【おおかみ】として祀【まつ】られるようになりました。
町会の該当区域は内神田1丁目1番5〜9・12・14号、5〜8番及び内神田2丁目1〜7、内神田3丁目1〜4となっています。
【神輿の特徴】
内神田鎌倉町会の神輿は朱色【しゅいろ】の飾網【かざりあみ】が美しい、
2尺5寸の大神輿です。
昭和38年に宮本 重義【みやもと しげよし】により作られました。
担ぎ手の緑色の半纏【はんてん】と神輿の鮮やかな対比をお楽しみ下さい。
綺麗な担ぎ方が当町会の自慢です。
【町会の特徴】
「淡路町」の名称は、江戸時代に鈴木淡路守【すずき あわじのかみ】という武家の屋敷があったことに由来しています。
また、この地域には「淡路坂【あわじざか】」と呼ばれる坂があり、地名の由来のひとつとされています。
江戸時代初期、この地域は武家地や寺院が多くを占めていました。
この地には「西福寺【さいふくじ】」「西念寺【さいねんじ】」といった寺院が存在し、地域の信仰の中心となっていました。
西福寺【さいふくじ】は慶長【けいちょう】3年(1598)、徳川家康が故郷の三河【みかわ】から呼び寄せた寺です。
この周辺には、江戸幕府の旗本や譜代大名【ふだい だいみょう】の屋敷が多く存在し、比較的静かな武家地として利用されていました。
江戸時代の中期以降、武家地としての機能が一部変化し、町人や商人が住むようになりました。
神田川の近くに位置していたこともあり、物流の拠点としての役割を持つようになり、江戸の物流を支える一角として発展しました。
特に、材木商や書物問屋が集まる町として知られるようになり、江戸の町の発展に大きく貢献しました。
明治5年(1872年)、行政区画の整理により「神田淡路町【かんだ あわじちょう】」が正式に命名されました。
その後、関東大震災(1923年)や第二次世界大戦を経て、再開発が進みました。
戦後、淡路町はオフィス街としての性格を強め、現在も多くの企業が立地する地域となっています。
当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。
町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。
【神輿の特徴】
淡路町一丁目町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。
小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。
【町会の特徴】
司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】は、「新銀町【しんしろがねちょう】、雉子町【きじちょう】、
関口町【せきぐちちょう】」等が合併し、昭和10年に設立しました。
新銀町【しんしろがねちょう】は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。
雉子町【きじちょう】には、『江戸名所図会』【えどめいしょずえ】を親子三代にわたって完成させたことや、
『東都歳事記【とうと さいじき】』『武江年表【ぶこう ねんぴょう 』などで有名な、
斎藤月岑【さいとう げっしん】が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町【きじちょう】の名主を務めていました。
関口町【せきぐちちょう】は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎【せきぐち やたろう】という人物が
草創名主【そうそう めいしゅ】だったので、それに因んで名付けられました。
この地域は蝋燭【ろうそく】の職人が多く住んでいたことから『蝋燭町【ろうそくちょう】 』とも呼ばれ、
夜を照らす大切な灯りを作る町として栄えていました。
町会の守護神として、「真徳稲荷【しんとく いなり】神社」が祀られており、五穀豊穣【ごこく ほうじょう】、
悪疫鎮護【あくえき ちんご】、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。
昭和22年、神田区と麹町【こうじまち】区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目【つかさちょう2ちょうめ】は
神田司町二丁目となりました。
町会の該当区域は神田司町二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
司町二丁目町会の神輿は昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座【にじゅうだいざ】になっています。
本塗【ほんぬり】の屋下総金箔押【おくか そうきんぱく おし】で
彩【いろど】られています。
台輪の四方には四神【しじん】彫刻が入っています。
総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。
【子ども神輿】
【町会の特徴】
内神田旭町【うちかんだ あさひちょう】は、かつて「永富町【ながとみちょう】」と呼ばれていた地域が明治2年(1869年)に統合され、「旭町【あさひちょう】 」と改称されたことに由来します。
この改名の背景には、江戸時代に当地を治めていた佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に由来するという説があります。
「旭」は日の出や朝日の象徴であり、縁起の良い名称とされています。
江戸時代、この地域には秋田藩佐竹侯【さたけこう】の上屋敷(藩邸)があり、藩主や家臣が生活を営んでいました。
佐竹家の藩邸の一部には佐竹稲荷神社【さたけ いなりじんじゃ】が創建されており、地域の人々に崇敬【すうけい】されてきました。
この神社は、現在も旭町【あさひちょう】界隈の鎮守【ちんじゅ】として信仰を集めています。
また、江戸期の内神田界隈は、商人町として発展しており、多くの商家や職人が集まる活気ある町並みを形成していました。
特に、神田地区は江戸随一の商業地として栄え、現在もその名残が残っています。
明治時代以降、町の区画整理や行政改編が進み、内神田旭町【うちかんだ あさひちょう】も次第に商業地としての性格を強めました。
昭和期にはオフィス街として発展し、戦後の復興とともに、周辺には企業の本社や中小企業の事業所が多く立地するようになりました。
現在の内神田旭町【うちかんだ あさひちょう】は、オフィスビルが立ち並ぶビジネス街としての顔を持ちながらも、
地域住民が協力して伝統行事を守る町でもあります。
昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、
昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。
町会の該当区域は内神田二丁目8・9・13・14・16番地、内神田三丁目5・6・8〜11・15・16・24番地となっています。
【神輿の特徴】
旭町【あさひちょう】の旧町である、永富町【ながとみちょう】では天下祭の神田祭では
竜神【りゅうじん】の山車【だし】を出していました。
その故事にちなんで、内神田旭町々会の神輿は神田明神、竜神山車【りゅうじんだし】 、
花笠【はながさ】の町衆【ちょうしゅう】が彫刻されている、非常に珍しいものです。
昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】作です。
【町会の特徴】
江戸時代、この界隈【かいわい】は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷【だいみょうやしき】が立ち並んでいました。
また、この地には神田明神の創祀【そうし】の場所である、「将門塚【まさかどづか】」がありました。
ここ大手町、丸の内一帯が大きく変貌【へんぼう】を遂げたのは明治23年(1890)になります。
陸軍が一帯を三菱社【みつびししゃ】に払い下げて以後、三菱社【みつびししゃ】が大規模な再開発をしました。
地域内の道路整備を行い、続々【つぎつぎ】と洋風の建築物を建てていきました。
赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったと言われています。
さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。
第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げたのです。
このような歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、
丸ノ内1〜3丁目という町名が誕生してからのことです。
そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。
将門塚保存会【まさかどづかほぞんかい】は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、
平将門公の御霊【みたま】を慰め、その遺跡である将門塚を保護・維持することを目的に昭和32年に設立されました。
令和5年に「一社社団法人」となり、将門塚の保全と社会貢献を目的としております。
当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。
【神輿の特徴】
平将門公【たいらのまさかどこう】を思わせる勇壮【ゆうそう】な姿を、とくと御覧下さい。
この神輿は、史蹟【しせき】将門塚保存会【まさかどづか ほぞんかい】の参与【さんよ】法人会員を務め、
大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡【しせき・きゅうせき】の保存・伝統文化の継承による
町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟【しせき】将門塚保存会に寄贈【きぞう】された神輿です。
一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造【いりもやづくり】」で台輪【だいわ】3尺5寸(約106cm)の大神輿です。
当町会内で働く男女、総勢1250名の担ぎ手により宮入りします。
日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝【みやいりさんぱい】の担ぎで魅せます!
【町会の特徴】
錦三【にしき さん】は、錦町三丁目町会【にしきちょう3ちょうめ ちょうかい】 、
錦町三丁目第一町会【にしきちょう3ちょうめ だい1ちょうかい」の2つの町会の連合となっています。
「錦町【にしきちょう】」の名前の由来は、かつて、「一色【いっしき】 」という旗本屋敷が二軒あったことから、
あわせて「二色【にしき】 」または「二色小路【こうじ】」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町【にしきちょう】 」と
改められました。
江戸時代、この地域は、松平紀伊守【まつだいら きいのかみ】などの武家地や「護持院ケ原【ごじいんがはら】 」と呼ばれる場所が広がっていました。
明治に入り、下級武士を中心に商店や職人が増加し、町の性格が変化していきました。
特に、神田橋周辺には運送業者が多く存在し、出版・印刷・製本業なども盛んになりました。
また、教育機関が立ち並ぶ文教【ぶんきょう】の町として発展を続けました。
かつては学習院大学や一橋大学の前身である高等商業学校がありました。
現在の中央大学である「英吉利法律学校【いぎりす ほうりつがっこう】もこの地で開学しました。
明治10年(1877)には、東京開成学校【とうきょう かいせいがっこう】と東京医学校【とうきょう いがっこう】が合併し
「東京大学」が創立されました。
現在では東京電機大学となった電機学校は、昭和に入りこの町内に移ってきました。
その他、「東京外国語大学 」や「共立女子大学【きょうりつじょし だいがく】」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。
町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。
【神輿の特徴】
錦連合は毎回、900〜1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。宮入の熱気に注目ください。
さらに、宮入だけではなく神田中央連合の駿河台下【するがだいした】交差点での神輿振り【みこしぶり】も必見です。
【町会の特徴】
錦連合【にしきれんごう】は「錦町二丁目町会【にしきちょう2ちょうめ ちょうかい】、
小川町三丁目南部町会【おがわまち3ちょうめ なんぶちょうかい】」の2つの町会の連合となっています。
「錦町【にしきちょう】」の名前の由来は、かつて、「一色【いっしき】 」という旗本屋敷が二軒あったことから、
あわせて「二色【にしき】 」または「二色小路【こうじ】」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町【にしきちょう】 」と
改められました。
江戸時代、この地域は、松平紀伊守【まつだいら きいのかみ】などの武家地や「護持院ケ原【ごじいんがはら】 」と呼ばれる場所が広がっていました。
明治に入り、下級武士を中心に商店や職人が増加し、町の性格が変化していきました。
特に、神田橋周辺には運送業者が多く存在し、出版・印刷・製本業なども盛んになりました。
また、教育機関が立ち並ぶ文教【ぶんきょう】の町として発展を続けました。
かつては学習院大学や一橋大学の前身である高等商業学校がありました。
現在の中央大学である「英吉利法律学校【いぎりす ほうりつがっこう】もこの地で開学しました。
明治10年(1877)には、東京開成学校【とうきょう かいせいがっこう】と東京医学校【とうきょう いがっこう】が合併し
「東京大学」が創立されました。
現在では東京電機大学となった電機学校は、昭和に入りこの町内に移ってきました。
その他、「東京外国語大学 」や「共立女子大学【きょうりつじょし だいがく】」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。
町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。
【神輿の特徴】
錦連合は毎回、900〜1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。宮入の熱気に注目ください。
さらに、宮入だけではなく神田中央連合の駿河台下【するがだいした】交差点での神輿振り【みこしぶり】も必見です。
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