
【町会の特徴】
東京都中央区。 老舗の香りが今も漂う、人形町。 この町の一丁目に、長い歴史を見つめてきた町会があります。
人形町一丁目町会。 その歩みには、江戸の粋と人々の営みが息づいています。
人形町”という名が生まれたのは、江戸の頃、当時この付近には中村座、守田座、市村座、
それに人形芝居小屋や浄瑠璃の劇場あったので、人形細工師が多く住み、お土産にする人形を売る店が多く、芝居と暮らしが交差する、芸のまちが広がっていました。
道には芝居小屋と茶屋が並び、細工屋や玩具店の軒先では、子どもたちの笑い声が響きます。
それはまさに、暮らしの中に芸がある町でした。
3月、5月の節句には人形市が立つなどで賑わっていたそうです。
明治に入り、芝居小屋は姿を変えても、町には変わらず商いと職人の手しごとが息づきました。 印刷業、洋品店、そして老舗の味が並ぶ通りには、新旧の文化が自然と溶け合っていきました。
昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の際、町の多くは焼け落ちます。
それでも、町の人々は手を取り合い、再びこの地に、人とまちの暮らしを築きあげました。
日本橋付近では人形町のみが焼け残り、戦後いち早くアーケード街を完成させるなど、活気を取り戻しました。
【町会の特徴】
東京・中央区日本橋。 今では高層ビルが立ち並ぶこの場所にも、かつて、海とともに生きた人々の姿がありました。
その町の名は蛎殻町【かきがらちょう】。 そして今、この地を支える町のつながりが、蛎一共和会【かきいち きょうわかい】です。
江戸時代初期――。 この地はまだ、江戸湾の入り江に近い低湿地でした。 波にさらわれ、打ち上げられた無数の牡蠣の殻(かきがら)が、地面を白く染めていたといいます。 “蛎殻町”という名は、まさにこの自然の風景そのものから生まれました。
徳川の世が進み、江戸の町が拡張される中で、この地もやがて埋め立てられ、町人の暮らす土地へと変わっていきます。
蛎殻町は、水路と陸路が交わる物流の要として栄え、町には海産物問屋、乾物屋、船問屋、蔵屋敷が立ち並びました。
船が水門を抜けて入ってくるたび、商人たちの威勢のよい声と荷運びの音が、町じゅうに響き渡ったといいます。
通りには料理屋や旅籠も並び、町を支えたのは商いだけではありませんでした。
職人の手仕事、町内の助け合い、火消しの備え――この町には、暮らしと絆を大切にする“江戸の人情”が息づいていたのです。
こうして蛎殻町一丁目、すなわち“蛎一”は、江戸という都市の背骨のひとつとして発展していきました。
時代は移り、町は近代化を遂げ、東京大空襲では大きな被害を受けましたが、焼け跡から再び立ち上がったこの町には、 “人と人とが力を合わせて暮らしを守る”という強い心がありました。
町の名に残された“貝殻の記憶”と、人々が築いてきた“まちの絆”。 蛎一共和会は、江戸の海辺に生まれた町の誇りとともに、今日も変わらぬまなざしで、地域を見守っています。
【町会の特徴】
東京都千代田区に位置する、神田富山町【かんだ とみやま ちょう】。この町の歴史は、江戸時代初期にまで遡(さかのぼ)ります。
その名の由来は、江戸時代。
しかし、度重なる大火により、防火や避難のための「火除地【ひよけち】 」が設けられ、武家地から商人や職人の町へと変貌を遂げました。
正徳3年(1713年)、芝増上寺の門前町であった芝富山町【しば とみやま ちょう】の人々がこの地へ移り住み、
神田富山町が【かんだ とみやま ちょう】誕生しました。
筆、表具、紙、金物、手仕事の音があふれ、町には江戸の暮らしを支える商いが集まっていました。
明治維新後も、町の活気は続きます。 周辺の町との統合を経て、町の名称は神田富山町【かんだ とみやま ちょう】として確定され、
やがてこの地は、出版と印刷の町としても知られるようになります。
本を作り、知を届ける、そんな産業がこの町に集まっていたのです。
江戸時代から続く由緒ある名前を持つこの町は、長い歴史と伝統に培われた人情味あふれる町として知られています。
また、慶応年間(1865年~1868年)に記された「江戸食物独案内【えど しょくもつ ひとりあんない】 」には、
この地域に醤油や諸味【もろみ】を扱う店があったと記されています。
町の姿は変わっても、名前に宿る記憶は変わりません。 神田富山町会【かんだ とみやま ちょう】 。 それは、かつての職人と商人の息づかいを今に伝える、静かで、たしかな“町の記録係”なのです。
【神輿の特徴】
富山町町会の神輿は、昭和30年、後藤直光により作られました。
東京・神田明神で行われる神田祭は、日本三大祭のひとつに数えられる格式高い祭礼です。
その中でも、もっとも荘厳で見応えがあるとされるのが「神幸祭(しんこうさい)」。
この神幸祭の最後を締めくくる儀式が「着輦祭(ちゃくれんさい)」です。
神幸祭は、神田明神に祀られる三柱の神々──大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、平将門命(たいらのまさかどのみこと)──を神輿と鳳輦に乗せ、氏子108町を巡る壮大な巡行行列です。
この日、早朝の8時前に発輦(はつれん)した行列は、太鼓や笛の音に導かれ、木遣りの声とともに都心の町々を進みました。約30キロに及ぶ道のりを、丸一日かけて練り歩き、夕方には再び神田明神へと戻ってきます。
夕闇に包まれ始めた境内では、祭のクライマックスとも言える「着輦祭」の準備が整えられています。
鳳輦と神輿が整然と本殿前に並べられ、氏子たちが息を整える中、神職による厳粛な神事が始まります。
この「着輦祭」では、巡行を終えた神々へ感謝を捧げるとともに、氏子の町々を無事に巡行できたことを神前に報告します。
神輿の前に正座し、静かに祝詞が奏上される様子は、日中の華やかさとは対照的な静けさを湛え、神事本来の厳かさを強く感じさせます。
最後には、木遣りの唄声が境内に高らかに響き渡ります。
その音色は、町と神を結ぶ絆を感じさせ、見守る人々の胸に感動を刻みます。
この「着輦祭」をもって、神幸祭は幕を閉じ、神々は本殿へと戻られます。
しかし、その余韻は、夜の神田明神に静かに、そして力強く残り続けます。
神田祭は、単なる伝統行事ではありません。
現代の東京に生きる私たちと、神々とのつながりを確かめる、大切な祈りの時間でもあります。
「着輦祭」は、その集大成として、祭を締めくくるにふさわしい、心を揺さぶる瞬間なのです。
行列は神田明神の大鳥居前までやってきました。
神田明神を訪れた人々を最初に迎えるのが、「大鳥居」です。
この大鳥居は、まさに神域への門。ここをくぐる瞬間から、日常の喧騒を離れ、静かで厳かな神の世界へと足を踏み入れることになります。
神田明神は、天平2年(730年)に創建された、1300年近い歴史を誇る古社。
江戸時代には「江戸総鎮守」として徳川将軍家からも篤く崇敬され、江戸城の表鬼門を護る守り神としてまつられてきました。
現在の神田明神の社殿は昭和9年に再建されたもので、関東大震災後の復興を象徴する鉄筋コンクリート建築ですが、大鳥居もまたこの時代の流れをくみ、時代とともに姿を変えながら人々を見守ってきました。
この大鳥居の前では、鳳輦・神輿、諌鼓山車、獅子頭山車など、続々と参道を上がり、境内へ帰社していきます。
雅な装束をまとった人々や、華やかな山車、賑やかな木遣りの声が響き渡り、鳥居前はまるで江戸時代の再現劇のような風情に包まれます。
神田の歴史と文化を体感できる入り口として、この大鳥居は今も変わらず、訪れるすべての人々に“物語の始まり”を告げています。
神幸祭の行列はいよいよ神田明神下交差点に到着しました。
神田明神のすぐ下、通称「神田明神下」は、神田の歴史と文化の香りが漂う、情緒あふれるエリアです。
坂の途中にあるこの一帯は、江戸時代から現在に至るまで、人々の信仰と暮らしが息づく場所として親しまれてきました。
明神下は、かつては門前町として栄え、神田明神を訪れる参拝客や祭礼の行列を迎える町として、独自の賑わいを見せていました。
周辺には老舗の飲食店や甘味処が立ち並び、今でもどこか懐かしい、ほっとするような雰囲気が漂っています。
また、神田明神から本郷方面へと続く坂道は、ドラマや映画などでもしばしばロケ地として登場する美しい景観を誇ります。春には桜、秋には紅葉と、季節ごとの風情も楽しめるのが魅力のひとつです。
一日中、熱気冷めやまぬまま、神幸祭の行列巡行はまもなくフィナーレを迎えます。
この明神下にも人々の活気と熱気があふれ、神輿や附け祭の行列が坂をのぼってくる様子は、まさに江戸の面影を今に伝える壮観な光景です。
神田祭の華やかなクライマックス、神幸祭と附け祭の行列が、ついに神田明神へと到着しました。
境内は、笛や太鼓の音、木遣りの声、そして拍手と歓声で包まれ、熱気に満ちています。
先頭を歩いていた鳶頭衆の粋な姿と木遣りの高らかな響き、そして約千名からなる大行列が、都心を巡り終えて戻ってきた瞬間は、まさに圧巻です。
附け祭の列には、時代装束に身を包んだ参加者や、趣向を凝らした山車・造形物が連なり、江戸の風情と現代の創造力が融合したユニークな世界が広がっていました。
そのどれもが、この瞬間のために丹精込めて準備されたものであり、観客の心を大いに沸かせていました。
神田明神の社殿前では、神職による厳かな神事が執り行われ、五穀豊穣、商売繁盛、町の平安が祈念されます。神輿や山車を見守る人々の表情には、誇りと感動、そして地域との深い絆が浮かんでいました。
神幸祭・附け祭が無事に神田明神に戻ってきたこの瞬間── それは、江戸から続く伝統と、今を生きる私たちの想いが交差する、特別なひとときでした。
廣瀬ビル前では、廣瀬美智俊総代によります献饌が執り行われました。
現在、世界的な電気とサブカルチャーの聖地として知られる秋葉原電気街。
しかし、この地が人々の注目を集めるのは、実は今に始まったことではありません。
秋葉原周辺は、江戸時代には神田川の河岸(かし)に沿った物流の要所として栄えていました。
物資が船で運ばれ、川沿いには倉庫や商家が立ち並び、町人や職人が暮らす活気ある地域でした。
また、火除地としての機能も担っており、火災防止のための空き地や広場が整備されていたことが地名の由来にもなっています。
江戸の町は火事が多く、幕府はしばしば火除けのために都市計画を見直しました。
秋葉原という地名は、明治初期にこの地域に火除けの神として秋葉大権現を祀る秋葉神社が勧請されたことにちなみ、「秋葉原(あきはばら)」と呼ばれるようになったと伝えられています(当初は「火除地」「あきばはら」とも)。
時を経て、関東大震災と第二次世界大戦で大きな被害を受けた後、戦後の闇市として再びこの場所は活気を取り戻します。
焼け跡に集まった露天商たちがラジオ部品や家電の中古品を売りはじめ、次第に「電気街」としての顔を持つようになりました。
高度経済成長とともに、ラジオからテレビ、冷蔵庫、洗濯機へと生活家電が多様化し、秋葉原は日本の最先端技術を体感できる場所となります。
さらに1980年代以降はパソコンやソフトウェア、2000年代にはアニメやゲーム、メイド喫茶などの文化が融合し、今では国内外から多くの観光客が訪れるカルチャーの発信地に進化しました。
万世橋の上からは、神田川越しに江戸の物流を支えた水路の面影と、現代のネオンサインが交錯する秋葉原の風景を見ることができます。そこには、江戸の伝統と現代の象徴が折り重なる街の物語が息づいているのです。
神幸祭の行列はいよいよ秋葉原の街中を巡行中です。
秋葉原の北端に架かる万世橋(まんせいばし)は、神田川に優雅なアーチを描く、東京の歴史を見守り続けてきた名橋です。
その歴史は明治10年(1877年)、日本初の鉄製トラス橋として誕生したことに始まります。
後に昭和5年(1930年)には現在の石造アーチ橋に架け替えられ、帝都復興事業の一環として再建されました。
頑丈で美しいその姿は、江戸から続く都市の記憶を静かに語りかけてくれます。
橋のたもとに残る旧万世橋駅の赤レンガ造りの遺構は、今では「mAAch ecute神田万世橋」として再生され、カフェやセレクトショップが並ぶおしゃれな空間に。
歴史と再開発の融合は、まさに「江戸の伝統と現代の象徴が重なっている」この街の姿そのものです。
そして、夜になると万世橋から眺める景色は一変します。
秋葉原の電気街に広がるネオンが神田川に映り込み、まるで光の回廊のような幻想的な世界が広がります。
歴史的な橋と、現代のテクノロジーの中心地が視界に同居するその瞬間は、東京ならではの“時の交差点”を感じさせてくれます。
万世橋は、ただの交通インフラではなく、東京の歴史と未来、静けさと喧騒、伝統と最先端が出会う特別な場所。
ぜひ一度、その上に立って、橋が語る東京の物語に耳を傾けてみてください。
神田須田町では青木総代によります献饌が執り行われました。
神田須田町は、東京都千代田区の北部に位置し、江戸時代から続く由緒ある町名を今に伝える地域です。
明治から昭和初期にかけての町並みが今も残るこの町は、東京の真ん中にありながら、どこか懐かしい風景に出会える貴重なエリアです。
須田町の魅力のひとつは、歴史的建造物を間近で見ることができること。
たとえば、江戸時代から続くあんこう鍋の老舗「いせ源本館」や、明治創業の老舗そば店「神田まつや」は、どちらも東京都選定歴史的建造物として登録されており、今も変わらぬ姿で人々を迎えています。
戦災を免れたことで、当時の木造建築が多く残り、街を歩けばどこか時代劇の一場面に迷い込んだような風情が感じられます。
そんな町並みの中に、昔ながらの蕎麦屋や甘味処、骨董店などが並び、今も多くの人に親しまれています。
古き良き東京を感じたい時、ぜひ神田須田町を訪れてみてください。街並みとともに、東京の歴史の奥深さを感じることができるでしょう。
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