廣瀬ビル前では、廣瀬美智俊総代によります献饌が執り行われました。
神幸祭の行列はいよいよ秋葉原の街中を巡行中です。
色とりどりの行列と色とりどりの電気店のネオン。
江戸の伝統と現代の象徴が重なっています。
【町会の特徴】
武家地であったところ明治4年に起立した町である。
旧蛎殻町二丁目と元大坂町の地域には、江戸後期から明治2年まで江戸幕府の銀貨鋳造所が設置されていた。
銀座役所と呼ばれもともとは京橋に設置されていたが、当地に移転してきてから「蛎殻銀座」と呼ばれるようになったという。
当役所では新政府による新円切替えにより大阪市の造幣局に貨幣製造業務が移転するまで、寛永通宝の四文銭を鋳造していた。
参考:
江都天下祭研究会神田倶楽部
「明神様の氏子とお神輿」
武蔵野書院 2001年4月1日初版
神田須田町では青木稔総代によります献饌が執り行われました。
須田町では「いせ源本館」や「神田まつや」など都選定歴史的建造物を見ることができます。
ここで、附け祭について説明します!
附け祭とは、江戸時代に流行した文化芸能を多様に採り入れた踊り屋台や疋き物、仮装行列からなり、各氏子町会で競い合って毎回テーマを変え、人々を楽しませた行列です。神田祭の中でも特に賑やかな行列で、人々から最も人気があったと言われています。
現在も、毎回テーマや趣向を変えた出し物が出されたため多くの見物人を楽しませています。
【町会の特徴】
魚河岸水神社の歴史は古く、天正一八年(一五九〇) 徳川家康の入府とともに江戸へ移り住んだ日本橋魚市場の開祖、森孫右衛門が、徳川家の武運長久と子孫繁栄を祈り、併せて大漁安全を祈願するため、武蔵国豊 嶋郡柴崎村神田明神境内(今の千代田区大手町)に一社を建設し、祭神「彌都波能売命(ミズハノメノミコ ト)」を祀ったことにはじまるという。
元文五年(一七三九) 八代将軍吉宗の時代には、魚問屋仲間により、社殿を新築再建し、神輿を修理して大祭を執行したという。
しかし、明治初年社殿が頽破したため、明治六年(一八七三)から明治三三年(一九〇〇)までは、当時魚市場内にあった長浜町の常盤稲荷神社 に合祀されていた魚市場の関係者が旧来の姿に戻すべく努力され、明治三四年(一九〇一)に、神田明神境内に社殿を新築し、魚河岸水神社と社名を 変更し、日本橋魚市場の守護神としたという。
魚河岸会の水神社神輿は20年ぶりの宮入です。
参考:
江都天下祭研究会神田倶楽部
「明神様の氏子とお神輿」
武蔵野書院 2001年4月1日初版
福徳神社の献饌が行われました。
福徳神社は薬祖神社の隣、コレド室町の裏手にあります。
今回で3回目の薬祖神社奉賛会の献饌が行われました。
薬祖神社はコレド室町の裏手にあります。
日本橋三越本店本館前では、株式会社三越によります献饌が行われました。
日本橋の中央通りでは、附け祭の行列も合流し、巡行は一段と賑やかさがUPしました。
山本海苔店前では、山本人総代によります献饌が執り行われました。
江戸東京の名所の日本橋は、慶長8年(1603)に初めて架けられ、現在にいたりました。現在の日本橋は明治44年(1911)に竣工したもので、国の重要文化財となっています。
明治に入ると、日本橋の中央が国内諸街道の起点と定められました。今も橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれています。
今、築地にある魚市場はかつて日本橋にあり、その由来から神田明神の境内には魚河岸水神社が祀られていて、築地魚河岸会の方々が参拝されます。