日本橋三・五地区 蛎一共和会

25.05.10

【町会の特徴】
東京・中央区日本橋。 今では高層ビルが立ち並ぶこの場所にも、かつて、海とともに生きた人々の姿がありました。
その町の名は蛎殻町【かきがらちょう】。 そして今、この地を支える町のつながりが、蛎一共和会【かきいち きょうわかい】です。

江戸時代初期――。 この地はまだ、江戸湾の入り江に近い低湿地でした。
波にさらわれ、打ち上げられた無数の牡蠣の殻(かきがら)が、地面を白く染めていたといいます。
“蛎殻町”という名は、まさにこの自然の風景そのものから生まれました。

徳川の世が進み、江戸の町が拡張される中で、この地もやがて埋め立てられ、町人の暮らす土地へと変わっていきます。
蛎殻町は、水路と陸路が交わる物流の要として栄え、町には海産物問屋、乾物屋、船問屋、蔵屋敷が立ち並びました。
船が水門を抜けて入ってくるたび、商人たちの威勢のよい声と荷運びの音が、町じゅうに響き渡ったといいます。
通りには料理屋や旅籠も並び、町を支えたのは商いだけではありませんでした。
職人の手仕事、町内の助け合い、火消しの備え――この町には、暮らしと絆を大切にする“江戸の人情”が息づいていたのです。
こうして蛎殻町一丁目、すなわち“蛎一”は、江戸という都市の背骨のひとつとして発展していきました。

時代は移り、町は近代化を遂げ、東京大空襲では大きな被害を受けましたが、焼け跡から再び立ち上がったこの町には、
“人と人とが力を合わせて暮らしを守る”という強い心がありました。

町の名に残された“貝殻の記憶”と、人々が築いてきた“まちの絆”。
蛎一共和会は、江戸の海辺に生まれた町の誇りとともに、今日も変わらぬまなざしで、地域を見守っています。