中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会

25.05.11

【町会の特徴】
江戸時代、この界隈【かいわい】は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。

この地域は、江戸時代初期の寛永【かんえい】12年(1635年)頃から、住民や寺院が強制的に移動させられ、
武家屋敷町に造りかえられたとされています。
古い絵図によれば、永井信濃守【ながい しなの のかみ】の屋敷が松平伊豆守【まつだいら いずのかみ】の屋敷となり、
のちに若狭小浜藩【わかさ おばまはん】酒井家の上屋敷【かみやしき】となりました。

明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目【かんだあわじちょう2ちょうめ】という名前が正式に付けられました。
町名の由来とされる淡路坂【あわじざか】は、鈴木淡路守【すずき あわじのかみ】の屋敷があったためと言われています。
 
明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立【きょうりつ】学校(後の開成【かいせい】学園)が創設されました。
ここでは正岡子規【まさおか しき】や南方熊楠【みなかた くまぐす】などが学びました。
また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉【ひぐち いちよう】も住んでいました。
淡路町は文化の町となり、その新進の気風【きふう】は町並みにも表れていました。
大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋【しょうへいばし】近くに活動常設館【かつどう じょうせつかん】という、
現在でいう映画館の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑【にぎ】わっていました。
 
町会の該当区域は淡路町二丁目【あわじちょう2ちょうめ】1〜29番地までの奇数番地となっています。

【神輿の特徴】
淡路町二丁目町会の神輿は、昭和52年の宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。
神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。