
午前8時過ぎに発輦した神幸祭の行列は、約30キロの巡行を終え、神田明神境内へと戻ってきました。
夕闇の境内では、鳳輦・神輿を前に、神幸祭行列が無事に氏子の町々へ巡行してきたことの報告と感謝の神事「着輦祭」が行われています。
これで東京都108の町を巡る長い長い巡行を終え、木遣りによって「神幸祭」が締められました。
行列は神田明神の大鳥居前までやってきました。
鳳輦・神輿、諌鼓山車、獅子頭山車など、続々と参道を上がり、境内へ帰社していきます。
神幸祭の行列はいよいよ神田明神下交差点に到着しました。
一日中、熱気冷めやまぬまま、神幸祭の行列巡行はまもなくフィナーレを迎えます。
一日が終わり、附け祭が無事に神田明神に到着し始めました。
本日は一時、雨の天気もありましたが、附け祭は熱気で盛り上がっております。
神幸祭の行列は秋葉原から末広町を巡行していきます。
この地域では、3基の鳳輦神輿のみの巡行です。
廣瀬ビル前では、廣瀬美智俊総代によります献饌が執り行われました。
神幸祭の行列はいよいよ秋葉原の街中を巡行中です。
色とりどりの行列と色とりどりの電気店のネオン。
江戸の伝統と現代の象徴が重なっています。
【町会の特徴】
武家地であったところ明治4年に起立した町である。
旧蛎殻町二丁目と元大坂町の地域には、江戸後期から明治2年まで江戸幕府の銀貨鋳造所が設置されていた。
銀座役所と呼ばれもともとは京橋に設置されていたが、当地に移転してきてから「蛎殻銀座」と呼ばれるようになったという。
当役所では新政府による新円切替えにより大阪市の造幣局に貨幣製造業務が移転するまで、寛永通宝の四文銭を鋳造していた。
参考:
江都天下祭研究会神田倶楽部
「明神様の氏子とお神輿」
武蔵野書院 2001年4月1日初版
神田須田町では青木稔総代によります献饌が執り行われました。
須田町では「いせ源本館」や「神田まつや」など都選定歴史的建造物を見ることができます。
ここで、附け祭について説明します!
附け祭とは、江戸時代に流行した文化芸能を多様に採り入れた踊り屋台や疋き物、仮装行列からなり、各氏子町会で競い合って毎回テーマを変え、人々を楽しませた行列です。神田祭の中でも特に賑やかな行列で、人々から最も人気があったと言われています。
現在も、毎回テーマや趣向を変えた出し物が出されたため多くの見物人を楽しませています。
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