【町会の特徴】
元佐久町も栄町と同じように小笠原藩邸でした。
明治3年に秋葉原の火除け地となる際に、神田佐久間町一丁目及び神田柳屋敷の代地として小笠原家屋敷跡に移転してきました。
この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。
「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するために付けられました。
明治44年(1911)に、元佐久間町と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。
町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田五丁目元佐久町会の神輿は昭和5年に宮惣の手により生まれたものです。歴史ある神輿とともに、宮入れします。
【町会の特徴】
「五軒町」の名前の由来は、江戸時代、この界隈に、上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷と、5つの大名屋敷が並んでいたことから名付けられました。
明治維新の時に政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、明治5年(1872)に、この地は神田五軒町と名付けられました。
その後、人家が立ち並ぶようになり、てんぷらの店や寄席などができ、町は賑わいました。
明治44年(1911)には、町名から神田が外され「五軒町」となりましたが、昭和22年に神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻りました。
そして、昭和39年、住居表示の実施に伴って外神田六丁目となりました。
町会の該当区域は、外神田六丁目3番地5・6号、4〜16番地となっています。
【神輿の特徴】
神田五軒町々会の神輿は、昭和52年に作られました。
屋根唐破風型白木造り総彫刻です。
重さ約300キロ、台座2尺3寸(約70cm)、高さ6尺8寸(約200cm・鳳凰を含む)、幅4尺7寸(約150cm)、親棒の長さ16尺(約500cm)という大神輿です。
数年前、約30年振りに総仕上げ直しをし、美しく輝いた神輿へと生まれ変わりました。
担ぎ手総数は350名余りです。
【町会の特徴】
同朋町会は、明暦の大火以前までは寺地でしたが、明暦の大火(1657)後に寺地を外に移し、幕府同朋衆の屋敷としました。
「同朋」というのは、室町時代に始まり、幕府の雑務、茶事を務めた僧体の小史のことを言います。
江戸幕府では、城中における大名の案内・更衣・刀剣の上げ下げ・茶弁当の世話をし、将軍外出の際には、長刀を持って従っていました。
平成8年3月に新調した浅草の宮本卯之助商店作の御神輿で同年5月の神田明神例大祭に参加しました。
町会の該当区域は、外神田二丁目10〜15番地、6丁目1・2番地及び3番地3・4・7・8号となっています。
【神輿の特徴】
神田同朋町会の神輿は平成8年に新しく作り直しました。
宮本 卯之助の作品です。
美しい仕上がりの中にも下町の落着きを調和した風情になっています。
【町会の特徴】
神田旅籠町は、昌平橋の北側にあたり、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになりました。
「日光御成街道」は、江戸幕府の徳川将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。
こうした重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
そして「旅籠」とは、江戸時代、旅人を宿泊させ食事を提供させることを生業とする家のことであり、旅籠屋の略でした。
旅籠という言葉自体はもともとは、旅の時に馬の飼料を入れる籠の意味が、旅人の食物雑品を入れる籠の意味になり、さらに転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋というようになりました。
また、この土地には有名な寺子屋の、「芳林堂」がありました。
芳林堂は、有馬藩士 金子政成が安政4年(1857)に開業しました。
その後、火災にあって旅籠町に移ってきました。
芳林小学校(現在の昌平小学校)の名前も、この芳林堂に由来していると言われています。
現在この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。
町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5〜7号、3番地、4番地1〜8号、18〜23号、5〜9番地及び外神田三丁目1・12・13番地となっています。
【神輿の特徴】
神田旅籠町会の神輿は昭和33年に南部屋 五郎右衛門によって作られました。
平成17年3月13日に神輿を、2尺5寸から2尺7寸へと大きくし、ますます迫力を増しました。
総勢300名の担ぎ手により、宮入りします。
【町会の特徴】
かつて金澤町と呼ばれていたこの地域は、神田明神下にあり、御成街道に沿った町屋でした。
1657年の明暦の大火以前は東本願寺の境内地でした。
その後は加賀金澤藩前田家の中屋敷となりました。
加賀藩は、藩主の居城が現在の金沢(石川県)にあったことから「金澤藩」ともいわれていました。
つまり、外神田三丁目に「金澤」という町名が伝わるのは、かつて加賀藩の藩邸があったからであると言われています。
前田家の上屋敷は、天和2年(1682)の火事で類焼し、幕府に没収されます。
その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金沢という町名はそのまま受け継がれていきました。
商人や職人の町として発展を続けた金澤町には、多種多様な店があったようで、文政7年(1824)に書かれた「江戸買物独案内」には、「やけど妙薬」で知られた田村万兵衛、「鼻紙袋」や「煙草入れ」を扱う津久田屋、瀬戸物問屋である玉川卯兵衛といった商人たちの名前が記載されています。
町会の該当区域は、外神田三丁目2・3・4・11番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田三丁目金澤会の神輿は昭和36年に宮本 重義により作られました。美しい神輿、迫力の担ぎぶりをご堪能下さい。
【町会の特徴】
田代町は、江戸時代中頃までは武家屋敷でしたが、寛政5年(1793)の大火で神田川周辺にあった町が燃え、町の一部が火除地となりました。
翌年、その町に住んでいた人々が、御成道の旗本永井 伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。
当初は「神代町」としましたが、あまりにも名前が立派すぎるので「神田代地」を省略して、「田代町」と改めました。
町内には花房稲荷が祀られています。
現在の社は戦火により消失してしまい、戦後に地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。
現在も4月にお祭りをしており、田代町の人々が大切に守っています。
町会の該当区域は外神田四丁目2〜6番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田四丁目田代会の神輿は、昭和35年に生まれました。
他の神輿に比べ、引き締まっている作りです。
是非ご注目下さい。
【町会の特徴】
末広町は、明治2年(1869)に「神田平永町・神田山本町・柳原岩井町・麹町平川町の各代地」七カ所を合併し、設立しました。
さらに十数件の武家地を吸収してその町域を大きくしました。
末広町と五軒町(現在の末広町交差点付近)にあった堀家の辻番所は、御府内随一との評判でした。
辻番と言えば、川柳に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概、老人と決まっていました。
しかし、この辻番所では番人を雇う際に、武芸の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠る事がなかったと言われています。
事件があれば六尺棒で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。
また、明治元年(1868)5月の新政府軍と彰義隊との戦い(上野戦争)の始まりは、この辻番所前で開かれたものである、と言われています。
町会の該当区域は、外神田三丁目5〜10番地、及び14〜16番地となっています。
【神輿の特徴】
大正15年、神田名匠、「だし鉄」作の神輿です。
大きさは2尺3寸です。
屋根金梨造りで、神田神社氏子町会で現存する神輿の中では一番古い神輿です。
【町会の特徴】
江戸時代の外神田四丁目周辺には武家屋敷以外に、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目」、「松下町三丁目」、「永富町三丁目」と呼ばれる町屋がありました。
明治2年(1869)、これら三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。
この名前は、松下町と永富町から一文字ずつ取ってつくられたものです。
町の真ん中を走る現在の中央通りにあたる道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに通る道でもありました。
特に毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成と呼ばれるようになりました。
因みに、将軍御成の当日は、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制が敷かれていたようです。
昭和40年頃までは町内には稲倉魂命を祀る三社稲荷がありました。
御利益が多い神社で、講武所の芸者の参詣は頻繁にあったと言われています。
町会の該当区域は外神田四丁目6〜13番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田四丁目松富会の神輿は、昭和53年に宮本 重義の手により作られました。迫力のある宮入を是非ご注目下さい。
【町会の特徴】
神臺会は神田神社の男坂下に位置します。
昭和39年に町名変更が実施されるまでは「台所町」と呼ばれていました。
明暦の大火(1657)までは日蓮宗の幸龍寺や曹洞宗の万隆寺の寺領でしたが、明暦の大火後、江戸幕府の火災対策の政策により、かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新政策に沿って、城内の御台所御賄方の武家屋敷として再建されました。
御台所町という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。
さらに寛文12年(1672)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあり、町内に「町屋」が作られました。
以降、御台所町は町人の町として発展を遂げていきました。
神田明神に近いという事から、「神田明神下御台所町」と長い名前が付いていましたが、明治5年(1872)に「神田台所町」となりました。
「神臺会」の名称は明治27年(1894)、日清戦争の年に町名として始まりました。日露戦争戦勝記念の「石橋」山車には提灯が飾られており、上の提灯の文字は「神臺会」、下の提灯の文字は「臺所町」となっています。さらに、戦後すぐの昭和21年製の太鼓には「神臺会」の文字が彫られており、現在もこの名称を町会名として使用しています。今年で121年の歴史となります。
神臺会は、現在も神田明神のお膝元としての誇りを強く持っている町会です。
町会の該当区域は、外神田二丁目5番地1~12号に加え、7番地1号・4号を除く、6~9番地となっています。
【神輿の特徴】
外神田連合の一番神輿です。
神社拝殿、前石段を舞台に奉納舞を行います。
その直後、神臺会の大小の神輿の宮入参拝を行います。
宮入後は外神田各町会の神酒所を神輿を担いで訪問し、交流を深めます。
その後、正午過ぎには秋葉原駅前中央通り「おまつり広場」へと場所を移し、外神田連合12基、岩本町東神田連合3基と江戸神社千貫神輿と協力して、神輿天国を盛り上げていきます。
氏子町会の宮入を前に、境内では神田明神将門太鼓による奉納演奏が行われています。
神田明神の三宮として祀られている平将門公の生涯を組曲に構成し、34年の歴史がある神田明神将門太鼓。
大小の和太鼓と鳴り物と呼ばれる竹や拍子木などを組み合わせて演奏する将門太鼓は、江戸っ子らしい歯切れのよさと軽快なリズム、躍動感あふれる動きが特徴です。