【町会の特徴】
江戸時代、秋田藩主佐竹右京大夫や、坂倉主計頭の大名屋敷があり、町人地と混在して活気ある町でした。町名は1744年(延享元年)来、日本橋本材木町の材木商人であった佐久間平八が移住したことに由来します。1868年の(明治元年)明治維新の後、坂倉家の屋敷が取り払われ、1902年(明治35年)、東京市立佐久間尋常小学校が開校しましたが、1931年(昭和6年)、総武線開通工事により校舎が取り払われ、佐久間公園になりました。1923年(大正12年)の関東大震災時、住民総出のバケツリレーで延焼を防ぎ町を守った伝説は有名。また、公園内にはラジオ体操会発祥の地を記した記念碑があります。
【神輿の特徴】
神田佐久間町三丁目町会の神輿は、昭和32年に後藤 直光の手により生み落とされました。
豪快で、元気いっぱいの担ぎっぷり、ご注目ください!
【町会の特徴】
1744年(延享元年)来、日本橋本材木町の材木商人であった佐久間平八が移住したことに由来する佐久間町の中で、一番東に位置する町です。材木や炭、薪などを商う人々が多く住みついたこの地は、1869年(明治2年)、神田佐久間町四丁目元地、神田佐久間町四丁目裏地、神田富松町元地が合併して神田佐久間町四丁目となりました。1872年(明治5年)、江戸時代末期から隣接する武家地を編入して町は広がりました。1911年(明治44年)、いったんは神田を取り、佐久間町四丁目と町名を変更しましたが、1947年(昭和22年)、神田区と麹町区が合併して千代田区となるのを機に、再び神田佐久間町四丁目となりました。
【神輿の特徴】
神田佐久間町四丁目町会の神輿は昭和32年に浅子 周慶により作られました。キレイな彫刻、豪快な担ぎっぷりに是非ご注目ください。
【町会の特徴】
1616年(元和2年)、駿府在城時の徳川家康に仕えた三河国八名川村出身の旗本らが江戸に召されたことの地を拝領したことから「八名川町」と呼ばれました。同年、隣接する地に久右衛門という名主が町屋を拓いたことから「元久右衛門町」ができ、また、1927年(享保12年)、幕府の鷹狩の為の餌となる小鳥等を納める役人の屋敷があったことから「餌鳥町」となりました。さらに、神田川南岸側から見て川向うにあたることから名付けられた「向柳原町」があります。これらの旧町が時代とともに変遷し、1967年(昭和42年)、神田の北東に位置することから東神田三丁目となりました。
【神輿の特徴】
光り輝く神輿に御注目下さい。
東神田三丁目町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工により造られました。総勢300名での宮入となります。
【町会の特徴】
1657年(明暦3年)、大火の後に伊勢津藩の藤堂和泉守の大邸宅と出羽鶴岡藩の酒井左衛門尉をはじめとした幕府諸役人の武家屋敷が建ち並んだこの地は、町の大部分を占めた藤堂和泉守の邸にちなんで「和泉町」と名付けられました。1868年(明治元年)、東京医学所が置かれ、後に大学東校、東京医学校等に改称され、現在の東京大学医学部の発祥の地となりました。また、1909年(明治42年)現在の三井記念病院の前身である三井慈善病院が設立されました。広大な和泉公園は1975年(昭和50年)農林省東京食料事務所跡地を4年間に及ぶ住民運動により獲得し、地域の憩いの場として整備したものです。
【神輿の特徴】
神田和泉町町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。
その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!
当町会を愛して止まない担ぎ手350〜400人で宮入を行います。
必見ポイントは社殿前です。
前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。
是非ご堪能ください。
【町会の特徴】
紺屋町南町会は慶長年間(1596〜1615)に徳川幕府の江戸城下に割り当てられた地域で、藍を扱う商人とそれを使用して藍染めをする職人達が多く住んでいたことから紺屋町といわれる様になりました。
全国の城下町には数多くの紺屋町があり、又、江戸にも三ヶ所ありましたが、現在の東京には神田紺屋町が残っているのみとなっています。
その後、併合や分割などを経て今日の地域になりました。
今川中学校の正門の前のブロックです。中間に北乗物町がありその北と南に分かれているので、戦後昭和30年2月にGHQによって解散させられた町会を復活し南に当たるので紺屋南町会として新たに発足いたしました。
町会の該当区域は紺屋町1〜25となっています。
【神輿の特徴】
紺屋町南町会の神輿は、平成11年、町会員の飯田昭次郎の手により作られました。
紙と木で作られた神輿です。
【町会の特徴】
町名の由来は一丁目と同様です。
多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。
ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。
昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。
近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。
この町会には、純金地金の精製や貴金属工業用品の製造などで高い技術を誇る徳力本店があります。その確かな技術、伝統と信頼で「金は神田の徳力」と言われています。元々は300年程前に幕府の命により金銀を改鋳し始め、今でもジュエリーや金工芸品など、幅広い分野で貴金属製品を取り扱っています。
町会の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
鍛冶町二丁目町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。
大きさは、台輪寸法2尺6寸です。総欅作りの傑作の神輿です。
【町会の特徴】
鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。
因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井 伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。
多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。
鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。
昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町等5つの町を一つとした「鍛冶町一丁目」が誕生しました。
町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
鍛冶町一丁目町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造りの神輿の一つです。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
秋葉原電気街での神輿振りは必見です。
【町会の特徴】
現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。
大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。
昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の大半は戦火をまぬがれることができたと言われています。
戦後、須田町二丁目周辺は、羅沙の切り売りなどを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。平成に入り、羅沙屋さんにIT企業も加わり、老若男女で活気ある町となっています。
また、昔から祭り好きの人たちがとても多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。
今でもこの須田町に住む人々は、お祭り以外にも、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続けていく町会です。
町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
神田須田町二丁目町会の神輿は、日本の発展、復興を願い、神田明神本社の神輿も手がける神輿師、『宮惣』の手により、約80年振りに新調しました。
大きさは二尺八寸(従前の神輿は二尺三寸)、延屋根造り、総彫、総彩色の神田唯一の神輿です。町内の柳囃子社中を先頭に、五百名を越える担ぎ手のより宮入します。新調した神輿と、一致団結した担ぎ手の『技』に注目してください。
【町会の特徴】
北乗物町は、明治2年(1869)に、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。
成立時、この地に多くの駕篭職人が入居しました。
町名を付けるにあたり、かつて駕篭などの乗物や馬具を作る職人が集まって今日中したために生まれた地名であると言われています。
元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して名付けられました。
「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。
町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。
【神輿の特徴】
北乗物町町会は山車にご注目ください。
戦後作られた氏子町会最大のこの山車は、電線の高さを考慮に入れて、昭和29年に作成された、「獅子頭太鼓山車」です。
神田神社の正面に建つ「随神門」をぴたりとくぐり抜け、宮入をします。
純金箔貼りの雄、雌の獅子頭を取外し、「獅子頭神輿」として担ぐこともできます。
台座は総欅作りで、丁寧な彫刻が施してあります。その美しさをご堪能ください。
【町会の特徴】
江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲でした。
江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったと言われています。
現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭」という寄席がありました。
この寄席は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席の一つでした。
町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16〜34番地までの偶数番地となっています。
【神輿の特徴】
須田町一丁目南部町会の神輿の大きさは他の町会と比べると小ぶりですが、彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。当町内には、老人病院があり、病院前で神輿を練るときは入院患者のご老人の方々をはじめ、病院スタッフにも大変喜ばれています。