【町会の特徴】
司町二丁目は、「新銀町、雉子町、関口町」等が合併し、昭和10年に設立しました。
新銀町は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。
このうち雉子町には、『江戸名所図会』を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記』『武江年表 』などで有名な、斎藤 月岑が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町の名主を務めていました。
関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎という人物が草創名主だったので、それに因んで名付けられました。
町会の守護神として、「真徳稲荷神社」が祀られており、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。
昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となりました。
町会の該当区域は神田司町二丁目全域となっています。
【神輿の特徴】
司町二丁目町会の神輿は昭和27年、宮本重義の手により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座になっています。本塗の屋下総金箔押で彩られています。台輪の四方には四神彫刻が入っています。総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。
【町会の特徴】
須田町中部町会は「神田青物市場」発祥の地として有名です。
水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、15,000坪(約4万9500㎡)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。
江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北に、平成2年には大田区へと移転しました。
それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。
須田町は江戸から続く、活気あふれる商いの伝統が今だに息づく町です。
町会の該当区域は須田町一丁目2〜14番地までの偶数番地となっています。
【神輿の特徴】
須田町中部町会の神輿は元祖女神輿です。
昭和52年から女性のみの女神輿を続けてきました。
女性ならではのきらびやかな神輿担ぎをどうぞ、御覧下さい。
【町会の特徴】
江戸時代、この界隈は、江戸の中心地として発展し数々の大名屋敷が立ち並んでいました。
また、この地には神田明神の創祀の場所である、「将門塚」がありました。
ここ丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治23年(1890)になります。
陸軍が一帯を三菱社に払い下げて以後、三菱社が大規模な再開発をしました。
地域内の道路整備を行い、続々と洋風の建築物を建てていきました。
赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせるようであったと言われています。
さらに大正3年(1914)には東京駅も完成しました。
第一次世界大戦による空前の好景気を追い風とし、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長を遂げたのです。
このような歴史を持つこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年に、丸ノ内一〜三丁目という町名が誕生してからのことです。
そして昭和45年、町名の表記が片仮名の「 ノ」(丸ノ内)から平仮名の「の」(丸の内)へと変更され、現在に至っています。
当町会は、この地域に所在する企業・団体及び商店等を会員として、昭和32年に設立されました。
当町会の該当区域は、丸の内一・二・三丁目、大手町一丁目及び二丁目となっています。
【神輿の特徴】
平将門公を思わせる勇壮な姿を、とくと御覧下さい。
この神輿は、史蹟将門塚保存会の参与法人会員を務め、大手町・将門塚の隣接する三井物産株式会社より地域社会との交流・史跡旧跡の保存・伝統文化の継承による町おこし・社会貢献活動の一環として史蹟将門塚保存会に寄贈された神輿です。
一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」で台輪3尺5寸の大神輿です。
当町会内で働く男女、総勢1250名の担ぎ手により宮入りします。
日本有数の大手企業人の心意気を宮入参拝の担ぎで魅せます!
【町会の特徴】
錦連合は「錦町二丁目町会、錦町三丁目町会 、錦町三丁目第一町会 、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。
「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色 」または「二色小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町」と改められました。
これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。
かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「東京外国語大学 」や「学習院」、「共立女子大学」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。
町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。
【神輿の特徴】
錦連合は毎回、900〜1000人前後の担ぎ手が参加する、大変大きな連合神輿です。宮入の熱気もさる事ながら、午後2時頃から予定されています、神田中央連合の駿河台下交差点での神輿振りも必見です。
【町会の特徴】
猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。
今でいう「能楽」は、江戸時代には「猿楽」として、武士達に親しまれていました。
「猿楽」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。
猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世座家元、観世太夫や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町一〜二丁目から西神田一〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という町名が生まれたと言われています。
他にも、文学では、夏目 漱石が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。また、明治18年頃には、町内に下宿し、一橋にあった東京大学予備門予科に通学したということです。芥川 龍之介も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町に設立され、日本の音楽文化近代化に多大な影響をもたらしました。また、猿楽町は、文芸評論家・小林秀雄氏、作家・永井龍男、脚本家・大石 静さんが生まれ育った町でもあります。
錦華通りに接する町内中程の角地には、元交番(町会詰所)の古い小さな建物(千代田区景観まつづくり物件)があり、映画やテレビドラマなどの「交番」として活用されています。
猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる2つの階段があります。いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。
町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目で、平成30年1月1日から町名に神田が付き、神田猿楽町になります。
【神輿の特徴】
町会創立60年、神田神社(神田明神)御遷座400年を機に全額寄付により御神輿を新調しました。
屋根唐破風神社型で台輪寸法2尺3寸。堂羽目彫刻には、町会の象徴として神田猿楽町の名前の由来にもなる猿楽「翁」が彫刻されています。正月や祝賀等に舞われる縁起物です。松竹梅に囲まれた中央にシテが舞う様子が表現されています。その足下には神田川も流れます。
もう片方には、「天の岩戸」。岩中に閉じこもった天照大御神を八百万の神々が宴を催し、覗き込んだ天照を外に出そうとしている様子を彫刻。上長押には十二支。子午線で午が南向きとされ正面となります。狛犬は阿吽獅子で、獅子が持つ鞠の中には動く玉を残しながらの彫刻です。
平成27年5月3日、町会に引き渡され、神社で清めのお祓いを受けました。宮本卯之助商店製作。
本日、朝8:30より放送中の「Internet TV 神田祭.CH」では、神輿宮入の様子を完全生中継!!
臨場感あふれる神輿宮入をお楽しみいただけていますか。
この後も、稲川淳二さん、そして、シークレットゲストをお迎えし、神田祭・神輿宮入の様子をお伝えしていきます!
楽しみに待っていてください!
ナビゲーター、ゲストへの応援メッセージ、コメントは メールでは、comment@kandamatsuri.chまで、Twitterでハッシュタグ「#神田祭」をつけてツイートをお願いいたします。
【町会の特徴】
小川町は小川町三丁目西町会、小川町北部一丁目町会、小川町北部二丁目町会、小川町北三町会の4つの町会の連合となっています。
戦前小川町全地域は一つの町会であったが、靖国通りを境に北部と南部の二つに分離され、その後昭和22年に小川町北部町会が四町会に分割され、今の状態になりました。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからとも言われています。
江戸城を築いた室町時代の武将、太田 道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
明治時代、小川町には西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。
また、町内で生まれ過ごした昭和期の小説家、永井 龍男を輩出した街です。
町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。
【神輿の特徴】
当初、小川町には、子ども神輿と中神輿、そして太鼓の山車があり、子どもの数も多く、とても活気に満ちていました。
やがて、子ども達が大きくなってくると大きな神輿が欲しくなり、有志が集まり趣意書を作り、毎月の定額積み立てを続け、昭和61年3月に2尺5寸の大神輿を調製しました。
それ以来、祭の度に町会員やその知人が多数集まり、賑やかに楽しくお神輿を担いでいます。
【町会の特徴】
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。
明治5年(1872)に表神保町 、裏神保町などの町が誕生し、大正11年(1922)には通神保町と改称した後、表神保町、表猿楽町等とともに、昭和9年(1934)に神保町一丁目となりました。
さらに昭和23年(1948)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
町名の由来は、元禄年間(1688〜1704)のころ、旗本の神保 長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路 」と呼ばれるようになったためと言われています。
神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に古書店街で有名な「神田すずらん通り」が走っています。
この通りの名前は街路灯がスズラン式に変わったことから名付けられました。
街路灯が変わった理由は、明治20年頃、この辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町」と呼ばれたくらいに、人通りのない恐い道であり、暗く恐い道を少しでも明るくしようとしたものであったと言われています。
現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
神保町は神田すずらん通りに代表されるように、『本の街』とも言われています。
大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸し出しています。
町会の該当区域は、神保町一丁目1〜41番地までの奇数番地、101・103・105番地となっています。
【神輿の特徴】
平成15年江戸開府400年を記念し、浅草、宮本卯之助商店より新調しました。
台座2尺3寸、重量330キロ、担ぎ手200名で宮入します。
神田中央連合の宮入参拝の帰途、午後2時頃より駿河台下交差点にて神田中央連合が集結し、神輿振りが行われます。
【町会の特徴】
江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。
このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目 、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷 、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。
明治2年(1869)にこれらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。
昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。
その後、昭和40年の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町 、神田大和町 、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となりました。
竹内町会長を中心に、非常に仲良くまとまった町会です。宮入の中心は青年部(総勢28名)と温かく見守ってくれる役員の方々!忘れちゃいけないのが何と言っても縁の下の力持ちの婦人部の方々!!東紺で一番盛り上がる日。それは今日の宮入です!!
組頭の建てた自慢の御仮屋も見に来てください。
当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1〜4番地となっています。
【神輿の特徴】
神田東紺町会の神輿は浅子 周慶により造られました。
大きさは2尺と、町会と同じく、決して大きくはありませんが、神輿を取仕切る青年部と担ぎ手総勢300名が一体となり、宮入りでの勢いは他町会に決して引けをとりません。
そして、なんといっても青年部の ”帯”、五分田柄東紺の”扇子”、首にかけた”掛け守り”、そして頭に巻いた”東紺の手拭”、等に注目して御覧下さい。
町会の仲の良さは神田一!仲の良い担ぎっぷりを是非ご覧下さい!