錦町河岸交差点

25.05.10

錦町河岸交差点のヒロセビル前で、廣瀬直之総代によります本日初となる献饌が行われました。

氏子総代は明治14年頃に内務省(今の総務省に近い省)により制定され、衆望ある町の人士から選ばれました。

神田・神保町・小川町といったエリアの間に位置する「錦町河岸交差点(にしきちょうがしこうさてん)」は、靖国通りと専大通りが交わる交通の要所で、現在も多くの人と車が行き交う、活気ある場所です。

この一帯は、江戸時代には物流の拠点である「河岸(かし)」が置かれていた場所で、水運と商業が盛んに行われていた歴史ある地域です。
そのため現在でも「錦町河岸」という名前に、かつての賑わいの名残が刻まれています。

さらに、周辺の武家地には町名がなかったため、代わりに「錦小路(にしきこうじ)」という通称で呼ばれていたという歴史も残っています。
もともとは「二色(にしき)小路」という表記で、近くに“一色(いっしき)”という名字の旗本の家が2軒あったことにちなみ、「二色」→「錦」と転化したという説が伝えられています。

現在では、すぐ近くに大学やオフィスビル、商店街が広がり、通勤・通学・買い物などで賑わいを見せるエリアに。
神保町の書店街、小川町のスポーツ街、すずらん通りの商店街など、さまざまな文化の交差点としての役割を担っています。
過去と現在が交差する「錦町河岸交差点」。何気なく通る場所にも、こんな歴史が息づいているのです。