日本橋三・五地区 人形町二丁目三之部町会

25.05.10

【町会の特徴】
人形町二丁目三之部【さんのぶ】町会です。 この一帯は「元吉原【もとよしわら】」の遊郭のあったところです。

かつて江戸の遊里【ゆうり】は各地に分散していましたが、この地は元和(げんわ)3年、1617年、幕府の公許【こうきょ】を得て、葭【よし】の生い茂る未開の沼地を開拓し、遊郭元吉原【もとよしわら】が設けられました。

“吉原”とは、遊女や芸者が置かれ、文芸や社交が行き交う、いわば江戸の“もう一つの顔”。
遊女たちは和歌や舞、三味線をたしなみ、訪れる人々は、その“もてなしと芸”を通じて、江戸の美意識にふれました。
こうした文化が根を下ろし、後に芝居町【しばいまち】 ・人形町の土壌となっていきます。
しかし、1656年(明暦2年)、幕府は吉原遊郭の移転を命じ、遊廓は浅草の吉原(新吉原)へと移転しますが、
この地にはその文化的な余韻が残され、人形芝居や浄瑠璃【じょうるり】 、細工人形といった“芸のちから”が町を彩るようになります。

元吉原があった日本橋人形町周辺には、当時の名残を示す地名や史跡が点在しています。
​例えば、末廣【すえひろ】神社は元吉原の鎮守【ちんじゅ】として建立され、現在も地域の人々に親しまれています。

​三之部【さんのぶ】という呼び名は、江戸の町を細かく分けた防災・自治の単位でした。
人形町二丁目のこの一角では、芝居と商いが息づく町を、火や水、盗難から守るため、人々が日々力を合わせて暮らしていました。

明治に入り、芝居小屋は姿を消していきますが、町には印刷所や筆記具店、和菓子屋が並び、
“古き良き江戸の記憶を宿す近代都市”として歩み始めました。