錦町河岸交差点のヒロセビル前で、廣瀬元夫名誉総代、廣瀬直之総代によります本日初となる献饌が行われました。
氏子総代は明治14年頃に内務省(今の総務省に近い省)により制定され、衆望ある町の人士から選ばれました。
江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねる地域でした。
当時の武家地には町名がなく、かわりに「錦小路(にしきこうじ)」という通称で呼ばれていました。
もともとは「二色(にしき)小路」という字を当てていたとされるこの呼び名は、近くに一色(いっしき)という名の旗本(はたもと)の家が二軒あったことで、二色→錦と転化したのだといわれています。